本

『現代キリスト教倫理』

ホンとの本

『現代キリスト教倫理』
ボンヘッファー選集4
新教出版社
\680+
1962.12.

 古い旧版で入手したのでそのデータでご紹介している。いまは新版が出ており、4000円に税が付く価格である。また、少し附録が加えられているという。
 ボンヘッファーの著書と呼んでよいのかどうか分からない。書き遺した原稿を友人が集め編集して書の形にしたのだという。時折改訂が行われ、ドイツ語原版はまた違う順序に変えているのだとか聞いた。
 ナチスの手から隠すようにして、書き送るなどしていた原稿が集められている。まさに獄中書簡なのであった。これを編集して並べるのは、当人ではなかった。しかし文章の息吹はボンヘッファー本人に違いなかった。そして、ヒトラー暗殺を企てていたその精神が、これらの文章を綴らせている。
 もちろん、そればかりを強調してはいけないかもしれない。また、自分の行為を正当化するために、この政権を力で潰そうという企みを義とする理論武装をしている、と決めつけることは相応しくない。そうした気品は十分ここにある。が、やはりひとつの動機はそこにあるのではないか。味わえば、隅々に、なんとかこのドイツの現状を破るために立ち上がる行為を、神の前に告白しようてとしている彼の姿が浮かび上がってくる、否、あらゆる言明の背後にそういう彼がいる、としてはいけないだろうか。
 口先で美しく信仰を語ることも私たちにはできる。そして今、それが行為とならねば意味がないというふうに論ずることも私たちにはできる。しかし、ボンヘッファーの目の前では、心で神を信じていれば救われ、それで神を信じることが満足させられる、と悠長なことを言っていることは、自身許せなかったに違いない。しかし、ならば聖書の中で、どこにその根拠があるのか。どういう解釈によって、いわば悪を為すことが導かれるのか。やはりそれを問おうとする彼の熱情を、私は感じざるをえなかった。
 ゆっくり推敲したのかどうか分からない。むしろ残された時間を気にして、とりあえず何でも書き出そうと努めたのではないかと想像する。少なくとも私ならそうする。そしてできるだけ誤解のないように、とも思い、1つの主張を様々な角度で念入りに説明しようとするだろう。ボンヘッファーの文体について私は知らないのでなんとも言えないが、本書でも、Aでなく、Bでもなく、Cでもなく、Dなのである、というような言い回しが多用されているのを見た。否定の形で別の理解を潰していき、自分の言いたいことをよりクリアにしようという心理である。また、それにも拘わらず表現が端折り、言葉の定義を明確にすることを忘れて、情熱で畳みかけることも私ならあるだろう。もしもボンヘッファーにもそのような傾向があったとしたら、納得できるような文体であったと私は理解している。
 たとえば、これは実際定義はしているのであるが、ボンヘッファーが本書で「現実」という語を使うとき、それは神の啓示、あるいはイエス・キリストのことだとして読んでいかないと、何を言っているのか分からないという状況がある。「根源」というのもそういうことである。普通の本では広範囲な概念が、ボンヘッファー自身の中では神の特定のものしか指していない、というような狭い意味で用いられもするので、表向きの語義だけで読むのでなく、色の付いた意味合いで捉えていかなければ、読めない場合が多々あるのである。
 時代背景があってこそ、言明は熱く伝わる。抽象的な思想で倫理を語るなどということは、ボンヘッファー自身が嫌うものであろう。時に告白教会やドイツ教会という実名の中で、吹き荒れる嵐に耐える葦としての自分が叫んでいるようなところがある。その中でただイエス・キリストに集中し、そこにつながろうとし、また信仰の中でしっかりとそれを支えとして、綴りに綴っているボンヘッファーの息吹を、果たして私たちが受け止める気概があるだろうか。否、私にあるだろうか。
 ドイツ教会も、少しずつ少しずつ流されるようにして、いつしかナチスの僕となってしまったのだ。日本の教会にしても、かつてはそうなっていた。私たちは歴史から学ばなければならないし、歴史の中の命ある雑草の言葉を、私たちの命としていく道を見出す自由が与えられているであろう。
 ある講義のオープン授業に参加してこの書に触れた。その講義での解説は、私には満足のいくものではなかった。ボンヘッファーは本当にそんなことを言っているのか、と疑問を多く感じた。私はもちろん専門家ではないが、ボンヘッファーの心に寄り添うように読んでいたので、別の叫びを受け止め、私の中でそれを受け取ろうともがいていた。倫理一般を語っているには違いないが、これはボンヘッファーの命を懸けた文章であり、そのどこを切っても熱い血が噴きだしてくるような叫びであったと、私は理解した。学的にそれが誤っているとされてもいい。聖書だって、そのようにして読むことがあっていい。私はきっと、ボンヘッファーに出会ったのだと考えている。




Takapan
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