『福田正俊著作集V 聖書研究・エッセイ集』
新教出版社
\3883+
1994.4.
井上良雄・吉田満穂・秋山憲の三人を編集委員として、信濃町教会がこれだけの著作集を出版したというのは、驚異的である。全3巻を同時に入手し、順に読んできた。それがいま、ついにすべてを読み終わり、いま感無量である。
特に、最後に置かれた「想い出と展望」には、胸が熱くなった。これで締め括られたことに、感動を覚えた。書かれたのは1973年であるから、必ずしも晩年のものというわけではない。信濃町教会の牧師を辞任するときの文章である。しかし、全3巻を要約するとこういうことか、と思わせるものがあり、これまで読んできたものを振り返るような気持ちがした。そして、案の定と言うべきか、巻末の「解題」にて、正にそのようなことが明かされていたのである。これを「福田正俊著作集全三巻の先生ご自身の「解題」と言ってもよいと思い、あえて第三巻の最後におくことにした」というのである。
私は、3巻のうちで、本巻が最も好きだと思った。もちろん他の2巻にいろいろと教えられ、福田牧師に少しでも近づくような思いで、ありがたく受け止めて味わわせて戴いたのは確かだが、説教集や神学論文集には、スーツをびしっと決めたような緊張感が漂っていた。そこへくると、自身の研究やエッセイを集めた本巻には、ラフな恰好で、胸襟を開き、腹を割って語るような、いっそうの親しみを覚えたのである。
カール・バルトが亡くなる直前のようなときに、訪ねたというレポートもいい。人柄を伝えることができるのは、こうした直接的な出会いに限る。その経緯から当日の空気までを詳細に伝えてくれている。そのとき、バルトが「鏡を破る」という表現を使ったことに関して、鏡が破られて救い主と真実に出会うことが重なって思えた、というような理解が心に残った。この文章は、先の「想い出と展望」のひとつ前に置かれている。
本書は先ずは、「主の祈り」の丁寧な講解あるいは黙想の書を収めるところから始まり、ピリピ書研究が置かれている。研究とは言っても、註解書というわけではない。自由に、しかし自身の信仰と噛合わせるようにして、書全体を渡り歩いてゆくものである。
エッセイに入ると、エレミヤに心を寄せたり、パスカルやルターに思いを馳せたり、また同期の親友である小塩力氏のことや、ヨブ記や愛の章に浸る思いを綴ったりするものが並ぶ。
教会というものに対しても、真摯に向き合い、論ずるのであるが、決して上から見下ろすようなことをせず、常に神の視線の下にある立場を弁えたことが伝わってくるような口調で語り続けるのが美しい。私もそのようでありたいと願うばかりである。
こうした姿勢は、文章の端々に見えるものである。いくら表現を飾っても、傲慢な人間の書く文章は、そういうものを伝えてしまう。言葉は確かに命を含むものであると思う。これだけの著作を長い時間をかけて味わってきて、私はとても清々しい気持ちを覚えた。聖書に向き合い、福音を守り、決して居丈高に振舞わない人の文章である。謙遜、などと言うと私がずいぶん偉そうに見ているように聞こえるかもしれないが、そのように呼ばせて戴くしかないような、誠実さを感じるばかりなのだ。
政治的なことを主張する人もいる。それが悪いとは言わない。だが、政治的な発言は、しばしば政治の欠点を批判することになり、それはまた主張者が正しいという前提でなされることになる。神の前で、人は神よりも正しくなるわけがないのだが、政治批判は、いつしか自らを神よりも高みに位置させてしまうことがあるのである。
福田牧師は、安易にそうした発言をしない。本書には、真珠湾攻撃のときに記された短文も掲載されている。しかしそれも、福音と聖書の光の下で記していることがよく分かる。確かに、安易に政府を刺激するようなことは言えない立場にはあるだろうが、かといって戦争を肯定し協力しようとするような勢いではない。そのときはアドベントであったわけで、クリスマスとは何かを問いながら、「主よ、来りたまえ」という終末への眼差しと受肉の出来事とを重ねている。戦争が始まったそのときに、「よし平和が来ろうとも終らない真の戦争をせねばならぬ」と結ぶのである。
祈りや音楽など、開いてゆけばとにかく教会に関する凡ゆることに触れ、よき牧会をしていたのだろうと推測される。中には、自分が傷つけて教会を離れようとする女性への手紙も掲載されている。心が痛むが、こうしたものを公表する著作集は珍しいのではないだろうか。
雑誌「福音と世界」についてはわずかしか書かれたものがないが、その創刊に於ける編集長として、100号に達したことを思うものがあった。また、信濃町教会の初代牧師である高倉徳太郎に関する発言も幾らかあるが、その逝去に関して恩義とでもいうのか、あるいは信仰と呼ぶべきか、豊かな感情が流れているのを感じることができた。
古書では、本著作集はまだ入手しやすい形で出回っている。ということは、折角これを手にした人が、古書店に売ってしまったのだろうか、と邪推するが、逆にそのために、いまこうして私のような門外漢までが、読むことができるようにもなった。また新に福田正俊牧師に出会う方が現れればよいが、と願っている。

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