本

『フロイスの見た戦国日本』

ホンとの本

『フロイスの見た戦国日本』
川崎桃太
中央公論新社
\2,000
2003.2.

 1563年、西九州に、ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスが上陸した。二年前に司祭の位に就いたばかりの31歳の若者だった。彼は『日本史』という、冗長ではあるがそれゆえに当時の貴重な資料となる、日本人の観察を遺した。日本への宣教を目標としつつ記したその書は、今日も輝きを失ってはいない。
 そして、著者は宣教について、次のように分析する。「日本におけるキリスト教の布教は迫害によって挫折した。では迫害がなければ布教は成功するかといえば、そうでもないようだ。今の日本は信教の自由が憲法で定められており、昔あったような信仰に対する迫害は考えることができない。ではその自由な日本で布教が成果を挙げているかといえば、答えはノーである。ということは、迫害が必ずしも布教の唯一の障害ではないということである。では布教が成功しないのはなぜか。その難しさの原因は迫害以外の所にあることを知らねばなるまい。」まさにそうである。
 続いて、本の著者はこう語る。「最大の障害は、布教が伝えるキリストの福音を受容するうえで生ずる心の葛藤ではないかと思う。福音は人生を変える。それまでとは違った生き方が提示される。心の回心が求められるのだ。忍耐と根気のない者は再生を賭けた戦いに打ち勝つことができない。途中で挫折してしまう。福音を受容するも拒否するも自由意志が決めることである。もとより神の恩寵は働く。だが恩寵は強制しない。恩寵に支えられた人間の意志がその主導権を握っている。 だから布教には勝利の喜びがある反面、挫折の苦しみと空しさが付きまとう。魂の葛藤にはドラマチックな側面がある。……」
 本の終わりの方で、「フロイスの見なかった日本」と題して、著者は日本を憂う。「戦後日本は経済大国にはなったものの、国際間の交流は主として経済の世界だけで終わっていて、心の通った精神、文化面での交わりにはいつも不得意で苦手なのが日本人ではないだろうか。……欧米人の世界観に宿る宗教心を日本人は理解できていないし、理解しようとしない。確かに民主主義的価値観の共有はことあるごとに宣言されてきた。しかしその根底にある宗教心にまで至らなければ、価値観の共有はあり得ない。したがって真の交流は期待できない。欧米人の心を支えているキリストの教えは四百年前に、すでにこの国で三十万を数える信徒を得ていた。この事実を思い出してみるのは無益であろうか。」
 最後に、日本人の国民性のゆえにキリスト教になじまないのか、と問うた上で、著者は信仰についてこう告げて終わる。「信仰は魂と神との交わりを意味する。神の向けられた魂の叫び――それが真の祈りなのだが――に民族的色合いや国民性の違いがあるだろうか。国民性の枠を超えた魂の祈りが信仰である。信仰の持つ普遍性ただしくは超自然性こそ、多くの知性が試みる文化論ではこれを捉えることができず、かつては歴史の独裁者たちを無気味がらせ、迫害者に変えた不思議な要因でもあるのだ。」




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