本

『フーコー入門』

ホンとの本

『フーコー入門』
中山元
ちくま新書071
\660+
1996.6.

 ミシェル・フーコー。名前は知っている。哲学界における功績についても分かる。なかなか誰も気づこうとしなかったことに目をつけたのだ。大きな仕事である。ただ私は、直接読む機会がなかった。代表作は、けっこう高価なのだ。
 そこで、手近な入門書でも開こうかと思い、よさげなものを選んだというわけである。実際、分かりやすさという点でも、またフーコーを巡る視点としても、なかなかよかったのではないか、と思っている。前者については、独特の哲学用語を並べて説明するのが好きなタイプの人がいる。専門家同士ならそれでもちろんよいのだが、素人相手に、概念を示す用語を並べてみても、助けにはならないであろう。問題は、読者の立つ位置と読者が知ることを鑑みて、そこからフーコーという世界にどういう経路をつくるか、ということなのである。生徒の知らない概念を連ねて説明をしたつもりになっている教師になってはいけないのだ。後者については、近代の思想の背景にあるものとフーコーとの関係、そのフーコーの生い立ちや特質などを巧みに絡めながら、人間フーコーが世界をどのように見ていたかを読者になじめるように提供してくれたということである。
 精神医としての働きと心理学へのフーコーの関心は、当時のフランスの心理学には飽き足らなかった。それで独自の理解を営んでゆくのだが、ある程度迷いというか、いろいろな方法や思考を辿ったようである。それでよいだろう。頑固に最初の発送で貫き通すというのも、実際無理な話であろう。
 そこで出会った「狂気」という現象について、考えていったことが、大きな業績へとつながっていく。
 さて、現代に生きる私たちには、当然これが正しいと思われる常識というものがある。あたりまえ、と言ってもいい。だが、思想史を学ぶと、古代ギリシアでのものの考え方には、その文化の違いと共に、あまりに私たちの予想を覆す奇妙さを覚える。中世社会でもそうだろう。同じ日本でも、平安時代の常識は理解できないし、中世の人々の重んじたことが、信じられないということもある。
 フーコーがどうしてかと思い探究したその「狂気」であるが、「理性」というものがあたりまえになった時代になって、社会から弾き出して閉じ込めるために、固まっていった概念だという指摘が、ここにある。そしてむしろ狂気を病気として位置づけたことによって、精神医学というものが誕生した、というような経緯をフーコーは暴く。
 こうして、従来の考え方の枠組みを読み解く鍵を手にすると、その鍵を他の分野にも使ってみたくなるものだろう。実験的であれ、いろいろ試して、世界を読み解こうとする姿勢には、私も賛同する。気づけば、私たちの理解する「生命」という概念すら、17世紀までは存在しなかったのだ、というようなことをフーコーは指摘する。近代の学の誕生と発展が、その背後にあるのだという。個人としてのひとの意識が十分浸透する社会になってきてこそ、個人の「生命」という捉え方をする必要が生じたらしいのである。また、同様に「人間」という概念も似た経路を辿り、その時代になってようやく生まれたのだそうである。
 もちろんこれは単純すぎるほどにスケッチした説明である。フーコーとくれば有名な「エピステーメー」の考えや、言語についての探究、人間の自由への考察など、注目すべきことは多々ある。ただ、私はやがて近代の知というものが始まって後に、真理と権力にまつわる展開が非常に面白かった。試験が社会のために必要になってくると、教師の教えることが「真理」として定められなければならないわけだし、教師の教えることには「権威」が伴うことになる。これは正にそれをしている私にとっては痛いほど分かる。
 何かしら規範のようなものが大手を揮うようになっていくから、「性」についてもいっそう狭い解釈の中で基準を満たさなければ認められないようにすらなってくる。私たちの体そのものまでが、どっぷりと支配の構造の中に組み込まれていくのである。
 この権力の遂行が、フランス革命の中にも現われているのだという。正義の名のもとに、あれほど残酷な刑罰を立て続けに実行した革命もない。これが真理だという掲げ方をしたら、それを正義とする権力が成立するのである。理性が中央に置かれるような建前を果たすことによって、凡そ非理性的な振る舞いが権力により正当化されていく。正しければ何をやってもよいことになってしまう。
 この指摘を聞いて、教会は、世の乱れだ、世俗の悪だ、と思ってしまうだろうか。ところがどっこい、この教会が正にそれをやっていることをフーコーを明らかにする。「司牧者権力」について触れた説明は、読んでいて実に痛かったし、同時に快かった。教会が信徒に対して権力を有するようになっていく構図が、見事に暴露されていたのである。福祉国家だとか国家理性だとかいうものと、この教会における権力の構図とが、ちゃんと重なっていく。残虐な道へと突き進む原動力となるのである。
 私は、カルト的な教団に最初足を踏み入れた。信仰というものの教義についてまだ素人だったような時に、そこに振り回された。だが、適切な信仰世界とのつながりもあったのと、自分で聖書をとにかくよく読もうと努めていたことから、その教団の教えていることが聖書とは違うということに気づいていく。また、そのことに確信が与えられ、イエス・キリストの十字架と復活の福音からすると、それは違うということを断定するに至った。そのとき、そこでなされていたことが、このフーコーのいう「司牧者権力」そのものであったのだ。否、それは組織化されたキリスト教会にも、同様に備わっているものであって、何かがあると鎌首をもたげてきて、フーコーの指摘してきたようなことを正義だとして襲いかかるということが、幾らでもあるものだということを、その後経験してきたのである。
 本書の筆者の描く筋書きは、きっちりと論理立てているというよりも、ふらふらと辿りながら、また同じ道に戻るようなふうに見えるように思われる。だが、それでよいと思う。順序立てて定理を並べるようなものが人間の目に見える世界ではない。ある考えがある分野に適用されたら、また別の分野にも適用してみるなど、うろうろするのが私たちの気づきである。読者は、フーコー自身が迷ったような道も味わいながら、一人ひとりに与えられた「ひとつの真理」を煌めかせていけばいい。そして、人間が陥りがちである危険な構造に気づいたならば、その都度声を上げていくようにしたいものだ。私はささやかながら、それをしている自負がある。だから、フーコーの思想の解読はどうであれ、フーコーの姿勢というものには、共感できるのである。




Takapan
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