本

『フォーサイスの説教論』

ホンとの本

『フォーサイスの説教論』
P.T.フォーサイス
楠本史郎役・大宮溥監修
ヨルダン社
\3700+
1997.4.

 カバーがない中古本として所有しているため、価格は他のサイトを参照した。百年ほど前に他界したイギリスの牧師であり、神学者である。従って、ここにある内容もその時代の中にあるものと捉える必要がある。名説教者スポルジョンより14年若いだけであり、説教という点で何か比較している研究者がいるかもしれない。
 フォーサイスは様々な教会で牧会した後、晩年は神学大学の学長を務めたという。本書はその1907年に著されており、保守的な考え方でまとめられているように見える。エール大学における講演内容であるといい、牧師にならんとする人々のために語られたものである。
 一読して分かるが、実に内容が濃い。遊びがないほどで、2頁から数頁にわたるひとつの短い項目だけでも、読み通すのに骨が折れる。いや、うわべだけを眺めるならば時間はかかるまいが、少しでも味わおうと思うならば、一文だけにちょっと唸りながら辿っていくしかないように思えるのである。
 説教者について、憲章・権威・教会や礼拝・現代・宗教的現代性・現代倫理というように、この現実世界で説教していくにあたり、実用的な章が並んでいるように見えながら、実は非常に霊的で、聖書に基づいてどんな心構えで語るべきなのかを、滔々と熱く説いていく。また、後半の鍵になるのが「積極的説教」というもので、フォーサイスの定義では「経験だけではなく内容を伴い、熱くなるだけではなく把握し、集中し、判断する信仰」であるところの「積極的信仰」という、自らの何たるかを心得ている信仰を以て語る説教、またそうした信仰を与えるような説教をいうのであろうと思われる。
 フォーサイスは、体系的な神学を構築することには、空論に陥る危険が伴い、正統主義神学と誇っても、いずれ時代の中で古くなる、という非常に落ち着いた観点をとっている。これに終わらないその「積極的説教」とは、福音的な神学に基づくものであるという。そして、これに対立するものとして、自由主義神学を頭に置けばよいというように描いている。恐らくフォーサイス自身、この自由主義神学を通ってきたのだろうと思う。しかし、晩年において、それを改め、むしろ敵視して、説教はイエス・キリストの購いを正しく伝えなければ命がもたらされないということを熱弁しているように見える。そのため本書は、最後にキリストの十字架の購いについて繰り返し語りつつ結ばれる。
 ここまでくると、もはや説教の理念や説教者への配慮というようなものではなく、ひたすら自分の確信する聖書観を言い放つかのようになっていく。そして最後には、それを突き詰めようとすると学術論文になってしまう、と断りを入れて、教会がこの贖罪の福音をしっかり構えて語っていく必要があることを繰り返す。これが崩れることによって、現代が信仰的に、そしておそらく人間の生き方という点においても、ダメになっていくのだと考えているのだと思う。
 これは、あらゆる批判を禁じているようなものではない。むしろ語り合う自由が必要であるとフォーサイスは考えている。教義がいま私たちの目に見える形で完成しているのではない。「底知れぬ深い淵」がなお広がっているのだという。これを弁えつつ語るというところに、積極的説教というものが成り立つのだと考えているのである。
 いずれにしても、「キリスト教は、説教によって立ちもすれば倒れもする」という本書の冒頭の言葉は重い。訳者は、20世紀の末において、日本の教会の説教が貧しくなっていることを憂えているが、果たしてその後、どうなっているだろうか。福音理解は、どういう道をその後選んで進んでいるのだろうか。百年前の古い意見と見定めず、これを批判する自由を以て、私たちは説教についていまもなお、問い続けていかなければならないのではないだろうか。




Takapan
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