本

『エリア随筆』

ホンとの本

『エリア随筆』
ラム
戸川秋骨訳
岩波文庫
\600+
1988.2.

 実は1940年発行である。それで旧字体のままである。岩波文庫創刊60年記念として、リクエスト復刊したのが20世紀末ということだったのである。1820年から22年にかけて『ロンドン雑誌』に連載されたものから選ばれたのがこの文庫であるが、その他のものも別に訳されているものがあり、多岐にわたるその随筆をもっと味わいたい方には、道が拓かれているようである。
 エッセイの古典として知られる本書だが、私が知ったのは、この著者の生涯を知ったからである。東インド会社で仕事をしていたというから、この随筆の見聞や各方面への広い関心も肯けるが、若いころ失恋して入院し、その直後に発作的に母親を殺害した姉を護り、生涯独身で暮らしたというのだ。この人はどんな文章を書いたのだろう。興味が沸いた。だが、文章にはそうした不幸な精神は少しも感じられなかった。面白おかしいユーモアたっぷりなものがちりばめられ、しかしまた宗教的にもちょっと斜に構えたところが見え隠れするものの、概ね真面目で筋が通っている。立派な紳士でありつつ面白い文章が書ける、というところだろうか。タイトルの「エリア」は、チャールズ・ラムのペンネームといったところであろう。
 名作と呼ばれる作品も収められているが、私はなんと言っても「焙豚論」が心に食い込んできた。今で言うなら「焼き豚論」というところだろうか。肉を生でしか食べていなかった時代、豚飼いの息子がへまをやらかして、豚小屋を焼いてしまった。その息子、焼けた後の香ばしい匂いに豚の肉に触れた手をついしゃぶったところ、その味が……。親父に殴られながらも、これ食ってみろよと目を輝かす息子と、ばかたれがと息子を殴り続ける父親とのかけあいなど、絶妙である。
 まあ、どこぞで聞いたほら話的なものもあれば、自身の懐かしい思い出に浸ることもあり、人間観察からの愉快な叙述もあって、変化に富んでいる。
 ラムの読書は乱読ふうではあるが、そうした知見が加わって、話を縦横に操る土台となっているのだろう。だが、やはり当人の文才、語るその妙技ともいうべきものが、読者を引き込む。随筆の嚆矢とされ、また秀美とも言われるのも尤もである。もちろん、時代的な環境や文化があり、いまとなっては社会的にどうだかというような、乞食に関する叙述などもあるが、それが作品の質を貶めるということはないとすべきだろう。
 自分の生活にまつわることを描くとき、仮名のようにしたり、別人がそうしたかのように描くこともある。すなわち、単純に事実を書いた随筆というのではなく、一定のフィクションを交えているのも特徴であろうか。特に姉のことを描こうとするときには、当然そのままに事実だけを並べるわけにはゆかなかったであろうから、別の立場の女性とするなど、工夫している。だからここにあるのは、通常の小説と随筆との絶妙な境界線上にあるものだと見ることもできるであろうが、案外それは非常によい形で作品を呈することになったのではないかとも思われる。
 さりげなく聖書の人物や言葉が盛り込まれているので、キリスト者には読みやすいところが多々ある。ちょっとした言い回しにも、聖書の文化が背景にあるということがよく分かる。それは日本文学でも、古典において仏教の言葉が自然に盛り込まれているのと同様であろう。本書の訳者は、聖書に限らず時代的な背景や人名など、かなり細かな註を入れてくれている。しかも段落直後に置かれているため、疑問がすぐに解決する。やはり私は註はこの形式が好きだ。
 各話の最初には、当時のものであろう、クラシックなペン画が添えてあり、雰囲気を伝える。毎日ひとつずつ、この古典のもつ世界に触れていくというのは如何であろうか。




Takapan
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