本

『英文法を哲学する』

ホンとの本

『英文法を哲学する』
佐藤良明
アルク
\1800+
2022.1.

 タイトルの上に「東大の佐藤先生と」と付いているので、それがウリになるのだろうか。「英語がまるで違って見える!」という文字も、タイトルの横に見える。
 果たして「哲学する」という言葉が適しているかどうか、は分からない。ただ、英語教育に生涯を費やしてきた方が、英語とは何か、を問い続けて、その文法理解に一筋の信念をこめて問い直した作品として、大いにリスペクトすべきものだ。
 その内容をご紹介するのは、よろしくないと考える。そこで、本の宣伝のつもりでお伝えしたい。
 従来の英語教育になんとか風穴を開けたいというのが本書のスタンスだと言えるだろう。そのために、まずは読者が関心を持ちやすいことを並べてみる。但しそれは、後々体系的に述べることの伏線となっているので、まずは一つひとつを愉しんで読めばよいが、それらがつながっていくことを期待してよい。
 英語がまず述語で結論を下してから、その他の情報を加えていく、というのは中学生に教えるときにも普通になされているだろう。しかし、中学英語では仮定法あるいは仮想の事柄については触れないのが基本である。その中で、wouldなどの動詞も取り入れていくので、これはその意図については伏せたまま進んでいることになる。現実を述べるか、現実とは離れたものを述べるか、英語は基本的にこの二つの時制を想定していること、その後者をとりあえず過去と呼んでいること、このあたりは中学でも伝えてよいが、その過去と現在をつなぐ、完了という、アスペクトにまつわるものを、恰も時制のように並べてしか教えていないのが現状ではないだろうか。これは、そのまま信じ込んで覚えてしまうと、後々修正を強いられることになると思われる。
 このように、英語を小中学生に教える立場にある者としては、自分の捉え方が間違っていなかったことで安心させてくれるのに加えて、さらに効果的に、はっきりとこう述べてよいのだ、という点も示されることがうれしい。特に、be動詞と一般動詞という、非常に不釣り合いな二項対立の、ほんとうの理由というものが、クリアに述べられていたのは、大いに参考になった。強いて言えば、haveもその区別に匹敵するほどの、大きな存在であることも、強く思わされた点を加えておこう。
 それから、TO不定詞についても、もちろん未来志向だとか、→のことだとかいうのは、教える者としては常識であるが、これをまだないことに寄せて捉えるということは、かなり思い切った説明であるとも言えよう。これは著者も、ひとつの勇敢な説として提示していることを自覚しているようであるし、その点も、ただ読みながらもそこにはっきりと記されている。それは誠実な姿勢である。
 英語の歴史は古い。そこで変化したことも多い。ただ本書は、歴史的な英語を説くものではない。それでも、かつての形をごくわずか見せるだけで、英語の構造についての根本的な理解を促してくれるのはありがたい。
 本書を愉しむためには、やはり高校程度の知識は必要であろう。文型や補語といった語について知らないと話にならない。但し、その補語については、教室で教えることとは少し違った理解を求められる。それほど、補語というのはこなり領域の広いものであったのである。もちろん、仮定法も本書の重要なターゲットであるから、高校英語は必須である。こうした点に目が開かれるというのも、わくわくと愉しみながら読める、その理由であったことだろう。
 最後には、英語についての様々なエッセイのようなものが並んでいる。「自然は否定を知らない」というのは、確かに哲学的な視察であろう。それがスッキリと述べられない点も含めて、英語のnotの考え方から、人間の認識について思いを馳せるあたりは、少しばかり哲学の道を通っていたと言えようか。そうした中で、日本語のスタンスと英語のスタンスとがずいぶんと違うこと、そもそもの立ち位置が違うというようなことは、本書の範囲ではまだまだ述べ尽くせないで、ラフスケッチに過ぎないとはいえ、示唆に富む指摘であった。日本語についての探究がここではできなかったために、また他の人々のための課題となったことだろうが、それは読者である私への課題でもある。
 しかし、翻訳や外来語を含め、外国の言葉が日本語にどんどん流入している。もとより、日本語は中国からの言葉に基づく点があり、やまとことばが純粋な形であるとも言えないが、それでも、漢語はやまとことばの構造の中に組み入れられたという点は確かにあるだろう。カタカナ言葉を取り入れたというだけではなく、英語的な、結末をまず言い切るという発想は、本来の日本語には欠けていたものかもしれないが、近代では新聞の叙述や学術論文の形式からしても、半ば常識になってきている部分がある。私たちに投げられられた課題は、小さくはない。
 最後に著者は、隠喩ということに、次のステップがあるような臭わせ方をして、本書を閉じている。文化へと目を開く大切な足がかりであるだろうとも思われるが、そこに「主の祈り」の古いままの英語の形が紹介されていたのは、印象的だった。「まるで」「あたかも」を取り去って隠喩そのままに思考することに、「信仰」というものを見出そうとしているなにげない一文は、とくに心に残った。カントの「かのように」の哲学という考えが、よい意味での「信仰」へと導かれるという可能性は、この私が身を以て示している。そして、それを伝えるべく、毎日を過ごしている。
 英語学習者が、「そんなことは知っている」と強がるのみならず、本書からまた、人と世界の理解に向けて歩み始めることができたら、素敵だろう、と思いつつ。




Takapan
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