本

『エックハルト説教集』

ホンとの本

『エックハルト説教集』
田島照久訳
岩波文庫・青816-1
\800+
1990.6

 フロムの本を読んでいて、エックハルトの思想がしばしば取り上げられるのが気になった。マイスター・エックハルト。名前は知っている。神秘主義と称される。しかし、その思想を辿ったことはない。こうして、他の本からチャレンジを与えられたとき、それが読む「時」なのだという理解を最近よくするようになった。何もかもを読み、知ることはできないが、きっかけがあれば触れてみようというのである。それが、自分の中からでなく、外からのチャレンジであると受け止めようというのである。
 13世紀後半からの時代を生きた、ドミニコ会の教師である。その説教と若干の論述と伝説が掲載されている。訳者の判断で重要性を認められる説教が選抜されているが、エックハルトについて知るにはこれくらいでまずは十分だと言えるだろう。
 古書で入手したが、本文はきれいだった。そう思って最後に来たら、やたら書き込みやメモがしてある部分に出会った。それは解説の箇所であった。どうやら、エックハルトの生涯について調べたかったらしい。実に細かな、そしてそこに書いてあるだけではない多くの情報が書き込まれていた。果たしてこの最初の持ち主は、本書の説教を読んだのかどうか、それは定かでない。少なくとも、読んだという証拠はなかった。
 キリスト教の説教を聞き慣れた者にとっても、これらの説教はすんなりとは聞けない。神秘主義と呼ばれる所以である。スコラ哲学張りの抽象的な議論があり、もちろん当時の思想の枠組みがないとすべては腑に落ちないのであろうが、たとえある程度の理解を一般読者がしたにしても、聖書とその解釈についてのかなり立ち入った理解がなければ、意味不明であるかもしれない。AはBである、という単純そうな命題ですら、なによそれ、と言いたくなる場面が多々あるし、ゆえにCはDである、と来られても、どこがどう関係しているのか、現代の読者は目を白黒させかねない。
 その意味で、訳注はかなりよく考えられて施されている。注は巻末に集められているため、訳注の頁に附箋を貼っておき、随時そこを開くという方法が望ましいように思われる。すると読書の助けとなること請け合いだ。当時のその言い回しが何を言わんとしているのか、訳者が丁寧に教えてくれる。
 それでもやはり、聖書について、あるいは哲学的思考について、一定の理解がないと、確かに読みづらいことだろう。私も何もかもが分かったようなふうには考えない。但し、その抽象的な言い回しや逆説的にも聞こえる思想が、著者自身の神体験に基づき、何かしらそこで感じたことを言語化しようと努めていることは想像できる。私もまた、そういう試みについては思い当たるふしがある。自分で感じたことを言葉にしようと格闘しているし、その時にこれでしか言えないと思った言葉、このように今は言うしかないと感じた言葉を羅列していくことで、その時点での自分の思想遍歴を形にしていくのである。
 しかしエックハルトとなると、これを確かに説教したのであろう。聞く者も、ふだんエックハルトに触れているような弟子たちであったのならば、師の言わんとすることを了解しているから、出された言葉の背後を探りつつ楽しめたのかもしれない。父子聖霊の関係についても、師の理解が了解されていれば、熱っぽく語られている神の秘事を感じ取ることは可能であったはずである。
 繰り返すが、訳者の注釈を頼りに読んでいくことをお勧めする。決してこれは意味不明の文章ではないのだ。但し、エックハルトについては、異端だと訴えられた事実がその生前からあったというし、なんとか持ち直したものの、死後ある教皇による異端宣言で表舞台から抹殺されることになったという。こうしてその原稿が遺されたことは奇跡のようでもあり、私たちにとってはありがたいものである。フロムがエックハルトを評価したのは、フロムがしきりに「持つ」生き方に傾いた現代文明を批判し、経済的観念に支配される現代人の不自由さから、それに縛られない自由へと提言する中で、エックハルトがすべてを手放して貧しさの中に真の自由を見出していく過程を重ね合わせたからであろうと思われる。私たちは、物でも何でも、所有しようとすることに、あまりに無条件に前提を置き、つまりは無意識のうちに支配されているだけであるかもしれない。エックハルトの問いかけの中に、人間の根源や神の前での裸の人間像というものを問い直してみることは、確かに必要であることのように私にも思われる。




Takapan
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