本

『イースターへの旅路』

ホンとの本

『イースターへの旅路』
荒瀬牧彦編
キリスト新聞社
\1800+
2021.2.

 新版・教会暦による説教集。そう、説教集である。クリスマスについても同じコンセプトのものがあったが、このイースターへ向けて、「レントからイースターへ」編まれた本書は、2021年という発行年がすべてを物語る。2020年の、新型コロナウイルスの感染拡大の中での説教を集めたものなのである。
 だからと言って、説教の中に疫病であるとかコロナ禍の苦難とかを盛り込んでいる、というふうに予想しても、また違う。もちろん、新型コロナウイルスの世の中のことに少し言及したものは幾つかある。だが、この話題に触れるというのが、新型コロナウイルスの時代に語るためにどうしても必要な条件だというわけではない。問題は、この中で主の言葉を取り次ぐということである。
 近年、阪神淡路大震災から東日本大震災へと、桁違いの震災を経験し、教会の説教もそれらのことを踏まえたもの、あるいは堂々とそれらの問題に立ち入ったり立ち向かったりしたものも少なくなかった。しかしこのコロナ禍は、教会のあり方を根本的に考え直させるものとなった。礼拝に集まることができなくなったという事態があったからである。
 もちろん、震災のときにも、被災教会というものはあり、礼拝を続けられないような情況があった場合もあるだろう。だが、それはいわば当地のみであった。しかし疫病は、特定の当地というものをつくらず、日本全体、それどころか世界全体を襲った。あらゆる教会が、その後集まりを再開しても、感染症予防対策を十分に練ったものでないと、礼拝を共にささげることができなくなったのである。
 教会は、ある意味で死んだ。だが、それは復活する時を待ってのことであった。これらのことが、すでに起こったのかどうか、私には分からない。恐らく説教者たちも、時代の歴史に結論を設けたつもりはなかったことだろう。できたのは、その場その場、週ごとの聖なるその日に、神の言葉を出来事となすべく淡々と語り続けたことだけである。あるいはまた、この神に差し向かいで叫ぶような、そんな説教があったとしてもよいのである。
 神を都合のようように操る私たちがいないかと問うもの。分断の時代を大きく課題として捉えたもの。いろいろ心に残るものがあったが、やはり私は、「イースターおめでとう」が大嫌いだと吠えたその説教に心が惹かれた。というより、それは私がかねてから懐いていた感情そのものだったのである。何がおめでたいのか。それを真っ向から問うことなく、十字架と復活ハレルヤ、と喜ぶその営みに、いったい何だという気持ちが消えることがなかったのである。
 また、女性の立場から、男社会でもある教会に鋭く問いかけたものがあった。姿はおとなしいようにも見受けられるが、相当に怒っていると私は感じたし、そう感じなければならないと、男の一人として強く思った。自分もまた、虐げている部分が必ずあるのだ。いい気になって、善人面をしている場合ではない。十字架と復活の場面では、男たちはすたから逃げ去り、女性たちはずっと見つめていたのだ。しかし、法的に証言能力がないとされる女性は、復活の証言すら、信じてもらえなかった。こうしたことを背景に、私たちはもっと真摯に、男たることの意義を根底から問い直さなければならない。いや、そもそも男と女という分け方自体がどうなのか、すべてを突き崩さなければならない時が来ているようだ。
 自分が至らないどころか、根底から間違っていたことに気づかされた、そういうエピソードを盛り込んでいる説教もある。そのことでいい気になってはいけないが、この姿勢には端的に共感する。私たちは、自分が正しいと思い、教会生活を続けている。それを信じて疑わないのは、信仰ではない。むしろ神からの離反そのものである。説教は、そうした自分の頑なさや誤りに、気づかされる時間空間でなければならない。このような、魂を揺さぶる説教集は、急いで読んではならない。私は一日ひとつと決めて、復活祭あたりまで読み続けた。そして、機会あるごとに、日々の祈りの如くに、繰り返し聞いていかなければならない。それに値する説教集がもたらされたことを、うれしく思う。後は、読者たる私の番だ。




Takapan
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