『デカルトとカント』
円谷裕二
北樹出版
\2500+
2015.11.
最後の頁に来て、短い「あとがき」を読んだとき、本書が本来、放送大学のテキストであることを知った。そうしたテキスト自体はその場だけの発行であるので、これはいつでも入手できるように単行本化したらよい、という助言などがあったそうだ。それで、ハードカバーの形で本書が出た。放送大学での講義から12年を経てのことである。
どうりで、非常に説明が明晰で、分かりやすかったのだ。ちょっとしたものの喩えも的確で、まだ随所で、通常の解説でもやもやとしそうなところが、クリアに指摘されていることを感じた。詰まり、これは非常に優れた解説だと言えるのではないか、と、読みながらずっと思っていたのだ。
そういうわけで、その同じ体験を、いまこれをお読みの方から奪ってしまったことを、申し訳なく思う。これは殆ど宣伝もされなかっただろうと思われ、地味な本ではないかと思う。もしかすると、本書は大学の講義のテキストに使われたのかもしれないが、市井の私はついぞ聞いたことがなかった。
本書は、古書店で見かけた。あまりに地味であったから、当初はさほど魅力を覚えなかった。しかし何度か見ているうちに、読んでみようという気持ちになってきた。
筆者は、九州大学の教授であった。私の住むところのすぐ近くにいたのである。2018年まで務め、定年退職となっているのだが、65歳でそれとはもったいない気もする。きっと学生のために、優れた講義をしていたのではないだろうか。
デカルトとカントとをこなすには、フランス語とドイツ語、そして恐らくラテン語も必要であろう。語学的にも達者な方であるのだろう。ほかにメルロ=ポンティについての著書もあるようであり、しかし多くはカントやその周辺であるようなので、やはり言語の面でも優れた方なのだろうとお見受けする。
あまり色気を出さず、また奇を衒うようなこともなく、ストレートに、オーソドックスに、まずはデカルトを、それからカントを説く。しかしながら、「現代に生きる筆者みずからの問題として引き受けながら」、2人を読んでゆく、というのである。もちろんこの動機は、「近代哲学」の解明にある。「近代」とは何か。何がその中に隠されているのか。いくら私たちが、自分は「近代」とか違い、「現代」だ、と主張してみても、しょせん近代的世界観の輪の中にいることになっている。そしてその「近代」を決定づけたのは、デカルトとカントだ、と見なすには大いに理由がある。その意味で、この2人が本書のすべてであるとしても、私は首肯するだけだ。
だが、私がいま、自分が近代の中にいる、と位置づけたのと恐らく同じような観点から、筆者は、2人を「みずからの問題」として取り上げて考察しているのだろう、と予想する。
実はその「まえがき」でいきなり、結論を提示している。「有限と無限の<あいだ>」から人間や世界や神を捉えようとする、というパースペクティブである。このことを頼りに、まず「序章」が始まる。近代哲学一般を概観するのである。しかし、立ち位置がはっきりしているので、話も聞きやすい。筆者がどこに立って何を見ているか、が最初に示されているからだ。この執筆姿勢は見習いたいと思う。読者にとり、実に親切なことなのである。
まずデカルトから本論が始まる。これもまた実にオーソドックスな話題に終始する。私なら、デカルトにしてもカントにしても、その自然科学者としての側面に触れないではいられないし、当時自然科学も哲学もひとつの輪の中にあった、という「学」の常識を踏まえていくようなスタンスをとっただろうと思う。だが、筆者はブレない。この講座には目的がある。近代哲学の、特に「認識」の重要性、またそれによって得られる「知」の性格について、はっきり提示したいのである。
方法的懐疑、コギト、神の存在証明、物体の存在証明、そして心身問題。デカルトを紹介する一般のやり方だと、たとえばデカルトが神を疑っておいて、その後その神を使って対象物体の存在を証明するのは、論理的におかしい、といった俯瞰を見せることが多い。この筆者も、その点は指摘する。だが、そこには何か「わけ」があることを確信しているのである。人間の意識だけしか存在を認めないままでいたら、どうなるだろう。心身問題の橋渡しが難しいからと言って、思惟する我しか存在しないのだ、と「論理的に」は走っていたら、どうなっただろう。客観対象について殆どの人が確実に体験している、物体の存在を無視して、空理空論を唱えても、人間は世界に働きかけることができなくなってしまうのではないだろうか。
デカルトに比べると、若干多い量を、後半のカントに費やしている。カントの扱った領域があまりに広いからだ。ここでも、カントをただ三批判書に絞り、それぞれの問題の立て方とそこを貫くものを見出す旅を案内してくれる。シンプルな構造だが、それこそが、問題点を曖昧にせず隠すことがない、筆者の誠実さと言えるように私は思う。
私はカントを一応読んでいる。だから、ここでの説明が、非常に整理されていて、ちょっとした点でもうまい言葉で、噛み砕くようによく説かれているのを強く感じる。近代哲学の中での位置づけにも常に気を払っているし、カント自身の言わんとすることを、適切な言い回しで代弁してくれる。私が出会ったカント解説の中でも、これは屈指の優れた説明となっていると思う。
しかし、ただカントを再現しているだけか、と言えば、そんなことはない。これはデカルトのときにも言えたことだが、最初の宣言通り、現代の人間にとりどうか、という問題意識をつねに構えているのである。話を聞いているうちに、確かにこれは、現代の問題をもう一度このような形で仕切り直して考える価値はあるのではないか、と思えてくるのである。
もはやそれを逐一ここに提示するゆとりはなくなった。そのため、ネタばらしになるかもしれないが、筆者の行き着いたところに軽く触れることにする。それは、判断力批判のことである。対象の認識を主観の認識形式から確実な知とする。これがカントの認識論であったが、そこには「統覚」というものがある。この統覚は、人間の個性を考慮しないものである。また、自由の事実を以て人間に実在する道徳法則は、理性の自律として行為の規範をつくる。こちらは、個性ある場面である。カントはどうしても、この二つの方向を消すことができない。ある意味で二元論である。しかし、デカルトが心身問題で双方の橋渡しをすることに労苦したように、カントも、認識と実践の間をどうつなぐか、という点に鍵を置いた。判断力である。判断力には二つがある。演繹的に働く規定的判断力と、帰納的に働く反省的判断力である。
結局、この反省的判断力が、近代哲学の認識論を支えてきたのだ、というところに、筆者は到達する。あるいは、読者を導いてゆく。ここで、医師の診断の例があることが、光っている。症状を診て、病因を判断することがそれだ、というのである。それは数学的自然科学のようにはできない。だが、だからといって確実でないような判断をすることができない、と逃げることはできない。
私たちの日常は、実はその殆どが、このような判断に覆われているのではないか。ごく一部の認識が、一点の誤りもない論理で運ばれなければならない、そういうコンピュータ論理で動くのは確かである。それが近代から今までの成果である。だが、それはごく狭い領域であるはずである。論理で片がつく、という世界は、非常に限られたものなのである。科学万能という信仰は、ここを広く適用しようとする教えであり、私たちもなおその中に置かれ、信じさせられていると思われる。反省的判断力への視野の必要性が、ここにある。カントは、この部分まで検討したために、「人間とは何か」という、自身にとり最後の問いへ、歩み寄ったつもりだったのではないだろうか。

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か
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