本

『ヴェニスに死す』

ホンとの本

『ヴェニスに死す』
マン パウル・トーマス
実吉捷郎訳
青空文庫
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2015.10.

 青空文庫から読ませて戴いた。従って発行年も青空文庫という意味である。  トーマス・マンの作品であるが、まだ百年ほどしか経っていないわけだ。だのに、もっと古くてもよいような気もした。
 グスタフ・フォン・アッシェンバッハという作家が、疲れたということで旅へ出る。ヴェネツィアが、ホテルで見たポーランド人の少年に心を奪われる。このおじさん、美少年に恋をしたのだ。
 なんといっても、描写が美しい。これでもかと押し寄せてくる言葉の波は、ストーリーそのものを展開させるのをためらうほどで、いつまでもその風景の中に浸っていることもできそうだった。アッシェンバッハ自身の容姿は、全体の六分の一ほどのところでようやく現れるが、こんな具合である。「グスタアフ・フォン・アッシェンバッハは、中背というよりもすこし低目で、浅黒くて、無髯だった。頭は、すんなりしているくらいのからだつきのわりに、いくらか大きすぎるかに見えた。てっぺんがうすく、こめかみのところが非常に濃く、そして白くなっていて、うしろへなでつけてある髪の毛が、深いしわのたくさんある、いわばきずあとでもついているような、秀でたひたいをふちどっている。」こういうのが、まだこれから後しばらく続くのであるから、ひとたび惹かれると、もう面白くてたまらない。これは人物描写であるが、物語の中にテーマのように流れる「芸術」における感覚は、たとえばこのようである。「立像と鏡! かれの目は、そこの蒼海のへりに立つ姿を抱いた。そしてもりあがる狂喜を覚えながら、かれはこの一べつで、美そのものを、神の思想としての形態を、かの唯一の純粋なかんぺきを会得するように思った。それは精神の中に生きているかんぺきであり、それの人間的な模写と似姿が、ここに軽くやさしく、礼拝のために打ち建てられているのである。それは陶酔であった。」いやはや、これが延々と続くのだ。
 実はこれを読もうと思ったのは、この物語の重要な部分に、「コレラ」が出てくるからである。そしてタイトルにある「死」は、この「コレラ」に関係していることになる。
 芸術を愛し、うら若い少年に恋をした50代であろうか、老練な作家は、身を滅ぼすことになってしまうのである。
 トーマス・マン自身が、似たような経験をしたらしいとも聞く。もちろん、モチーフのようなものであるが、魅力的な少年に会ったようだ。当然死んだわけではないけれども、作家というものは、自分中にふと生じた感情を、いくらでも膨らませ、舞台の上に落としていくことができるのだ。芸術はこうして枝を張るが、その背景にコレラがあったというのは、コレラというものもまた、文学において活躍するということでもある。
 果たして、新型コロナウイルスは、文学になるのだろうか。ある論者は、ならないと見た。これまで西欧社会で人々を恐怖させ、国や制度を崩壊もさせたペストやコレラのような感染症は、文学に多く取り入れられた。一体どこが違うのか。あるいは、新型コロナウイルスもまた、文学になりうるのだろうか。
 美しい文の力を存分にここに打ち出したトーマス・マンは、いまはもういない。作家たちがなんとか描こうとしている様子もあるが、これほどの作品が果たして実るのか。今後に期待できるが、その中で、そもそも芸術というもの自体が蔑ろにされ、経済至上の社会に滅ぼされそうにすらなっているということ自体が、新型コロナウイルスが文学という形をとって問われることがないということを表しているのかもしれない。
 時にはこのように、力のこもった球を受けてみたいという気がする。作家の投げる球を、捕球できるかどうか、難しいかもしれないけれども。




Takapan
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