本

『親愛なるナイチンゲール様』

ホンとの本

『親愛なるナイチンゲール様』
川嶋みどり
合同出版
\1600+
2019.6.

 あなたが弱き者と共にあったように。副題が付いている。まるで教会のスローガンのような言葉遣いである。もしかすると、教会に不足しているものそのものであるのかもしれない。
 ナイチンゲールについての伝記やその生涯と働きを紹介した本はたくさんある。私もいくつか見た。こども向けのものの書きぶりもあるが、大人向けのものであっても、使われるエピソードというのは限られているように感じていた。が、今回は違った。
 本書も、子どもに読めるような類のものである。装丁がしっかりしているのは、それだけ大切に作られたという印象を与えるが、子どもが扱うことを考えているようにも思える。しかしよく見ていくと、ふりがなが打ってない。ということは、ゆったりじっくり読ませるように配慮された、大人向けの本なのである。
 著者は、日本赤十字のほうで活躍された方。看護についての優れた本を多く著している。そこで誤解を招くかもしれないが、ナイチンゲールは、赤十字活動をした人ではない。そちらはアンリ・デュナンである。同時代の人であり、ナイチンゲールも赤十字を意識していたことは間違いない。しかし、それはむしろ批判的な観点であった。このことについてはここでこれ以上は言及しない。
 ただ、赤十字関係の人が著しているために、この点も正確に把握し、説明してくれている。赤十字の看護というと、そこで微妙な位置に属することになるのだ。
 フローレンスの出生についても有名である。親の長い新婚旅行の中で生まれたという、裕福な家庭での育ちであったが、犬への優しさ云々としばしば語られるエピソードを、本書では全く採用せず、ここで貫いているのは、ナイチンゲールと神との関係である。この筋道に驚いた。著者はクリスチャンではないような気がする(もしそうだったらどなたか教えて戴きたい)。しかし、神に進路を求め、神の声を聞き、しかもその実現に長い忍耐の時を必要とした末に動き始める、その描き方は、まるでクリスチャンの伝記のようにさえ思えるほどである。当時の女性の立場というものが丁寧に描かれており、現代との違いを読者に強調する。そもそも看護師というものの社会的地位が、当時は最低だったのだ。
 神の声を聞きつつ、親に従う、そしてなんとかそこから打開しようとするが、反対に遭い、あげく結婚の申し込みを断り、親の激怒を買う。しかし、人々とよい関係を結ぶことをモットーとするナイチンゲールは、人脈をつくり、看護職を実践する機会を得る。そこに身分のある人の支援を受け、ついにはイギリス女王とのつながりまでできてくると、今度は親はそれを喜び自慢するようになる。フローレンスはこれを訝しく思うも、ともかくそこから我が道を進むことができるということで、看護環境の改善を提言していく。
 そう、医療的な技術をナイチンゲールはものにしたのではない。戦場での傷ついた兵士を助けたいというその思いは、環境整備を第一としたのだ。これは有名なことなので、ナイチンゲールについて少しでも知る人は知らないはずがないことなのだが、衛生観念を重視し、医療環境を調えることで、人命の助かる点も全く違ってくることが分かるし、何より看護を受けた兵士たちが、絶大な支援を叫び合わせるようになっていくのだった。
 今日では、当然だとも言えることが、当時はそうでなかった。しかし、2020年に生誕200年を迎えるナイチンゲールであり、韓国併合の年に天に召された人であったが、その後の第二次世界大戦のとき、日本の野戦病院の環境がいかに酷かったかを思うと、とくにあの沖縄戦の惨状は、あまりにも悲しい。戦争は、兵士を大切に扱うなどという余裕がなくなる場面なのである。そこへ、ナイチンゲールは、兵士の待遇改善を提言し女王に聞き入れられるなど、重要な働きをしたいたことになる。
 もちろん、戦争そのものをやめよという形で活動した人ではない。動機は、戦争時の傷ついた兵士たちであった。戦争をどうするか、それを考え活動するのももちろん大切だが、現実にそこに傷ついた人がいるその場で、何ができるか、ということになると、とにかく治療とケアしかないのである。
 戦争の是非についてなど、もちろん課題は多い。しかし、それをきっかけに生まれてきたこの現代的看護の概念は、たしかにナイチンゲールという一女性を通じてもたらされたと言ってもよいであろう。私たちがそれをどう受け止めるかが肝要である。
 ナイチンゲールと神との対話というテーマは、本書をずっと貫いていく。キリスト者が読むと、実によく分かると思われることだろう。キリスト者には「召命」というテーマがあり、あるいは「呼び集められたもの」としての教会が確かにあるのだが、牧師などになることだけが召命なのではなく、ナイチンゲールのように、様々な形で、キリストにある者の一人ひとりが、呼び出されており、神の声を受けている。聞こえていないかもしれないし、気づいていないかもしれないが、神は確かに声をかけている。そうした、個人的な生き方について、本書はしみじみ考えさせてくれるのだ。
 中には、残酷なシーンも描かれている。人が死ぬということはどういうことか、戦場とはどういうところであるのか、伝えるためである。それでもだいぶオブラートに包まれたような形でしかないとは思うが、それでも、かなり刺激的な表現もとられている。だからこれは小さな子どもにはきついと思う。その意味でも、大人向けであるということになるのだろう。
 もし何か苦言というか、お願いするとすれば、ひとつの言葉についてである。看護婦というかつての表現と、ここしばらくの看護師という表現とが混在しており、時に一続きのまとまりの中で理由なく両方出てくるなど、校正の問題があるのかと思われる点がしばしば目についた。それとも、細かな使い分けがあったのだろうか。それは私には気づかなかった。
 そしてこれは私なりのひとつのこじつけのような観点。本書は行間が広い。それでこども向けの本かと思ったのだったが、読後思うのは、この行間の広さが、そこにこめられた、言葉にならないもの、苦労や命や哀しさや忍耐や、様々なものを伝えるのに一役買っているような気がしてならないのは、私の読み込みすぎであろうか。
 弱い者と、私たちはほんとうに共にあるのだろうか。




Takapan
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