本

『キリスト教と笑い』

ホンとの本

『キリスト教と笑い』
宮田光雄
岩波新書219
\534+
1992.3.

 もちろん価格は発行当時のもの。以前から読みたいと思いつつ、なぜか先延ばしになっていて、ついにその時が訪れたという印象の本である。
 キリスト教のユーモアは、イエスの笑いというのが福音書に一切ないために、ためらいがちに扱われることが多かった。しかも、特に修道士などの関係で、笑いは禁止という文化が歴史の中にあるなどするものだから、タブー視されていた側面もある。笑うなど、不謹慎な、というわけである。
 しかし、露骨に書いていないにせよ、ユーモアたっぷりの話はあると思われるし、その後の歴史の中でも、たとえばルターにまつわる笑いのエピソードは、本書にも紹介してあるように、ふんだんにあるといえる。
 聖書から、そしてキリスト教の歴史から、そうした笑いにまつわるものを、楽しく紹介しようというのが本書の狙いであるだろう。しかも、読者にへつらうように、おもしろおかしくするというのでなく、岩波新書らしくちゃんと論じたり、証拠を挙げたりして、信頼に足る内容をもつことになっているように見える。だから「おもしろ」なんとか、といったものでは決してない。
 ジョークという笑い方もある中で、ユーモアには、何か解放していく作用のようなものがあるのではないかというところから歩き方を定め、著者は読者を導いていく。それから詳しく旧約聖書のヨナ書を繙く。クリスチャンにはおなじみの物語で、子どもたちも喜ぶ内容ではあるのだが、実のところ扱えばいろいろと深いものが味わえるし、しみじみ思えるものが含まれている。ユニークさという意味では確かに旧約聖書の中でも面白いものの代表であるだろう。
 そもそも面白さというものは、説明をすると興ざめになるものである。だから、このような分析が相応しいのかどうかは分からないが、誰かがどこかでしなければならない作業だとすれば、この小著には大きな価値がある。ヨナ書のユニークさとは何であろうか。50頁弱、楽しみたい。
 最大の問題は、イエスである。イエスが笑ったという書き方は福音書や書簡にはどこにもない。だから古来、イエスは笑わなかった、とするのが一般的で、聖書を信じるというのはそういうことだ、と考えられてきた。それが敬虔なクリスチャンの聖書への対し方であり、クリスチャンは生真面目に生きるべきだし、高笑いなどするのはタブーであるとされていた。その最たるものが修道院であった点は先にも紹介した。
 しかし、らくだが針の穴を通るなどと言われたときに、それをしかめっ面をして、ありがたい教えだなどと聞いている弟子たちのほうが、よほどおかしくないだろうか。庶民的な喜劇の舞台を見るような思いがするのは、私だけではないだろう。イエスはふんだんに譬えを用いた。それは、庶民やいわば下層階級の人々に神の教えを理解させるためであった。誰にでも分かる。心が神に向いていれば、神と結びつくことができる心であるのならば、伝わるべき人にはちゃんと伝わるものであった。それが、堅苦しい学者の研究でしか到達できるものであるはずがない。心はユーモアで打ち解けたときに、何でも受け容れる素地ができることになるだろう。ユーモアは互いを受け容れる備えである。笑いが消えた世界で福音が語られていたと考えるほうがどうかしている。
 もちろん、聖書に書いていないからそのことは考えない、とする信仰を揶揄したくはない。ただし、「喜べ」という命令はどうやって実行するものであろう。笑うよりほかないのではないだろうか。
 著者の筆は、パウロという堅物の中にもユーモアを読み取り、やがてルターの笑いで喜びまくる。確かにルターには面白い逸話が多い。しかし、著者の友とはいえ、カール・バルトの面白さはとびきりである。最後の60頁は、これら二人の話題でもちきりとなる。読みながら十分笑って戴きたい。私も楽しめた。
 だから、笑いとは何かを分析するというような心づもりで読み始めた読者も、結局、面白かった、と本を閉じれば、それでよいような気がする。聖書は、そして聖書を読んでそれを生きる人は、楽しいのである。それは空しく消える楽しみではなく、永遠の喜びに関わるものであり、またそのことが、うれしくなるのである。




Takapan
ホンとの本にもどります たかぱんワイドのトップページにもどります