本

『キリスト教は戦争好きか』

ホンとの本

『キリスト教は戦争好きか』
土井健司
朝日新聞出版
\1470
2012.4.

 目立つタイトルである。
 一神教だから好戦的、という批判がよくある。それは、キリスト教をよく知ってのことというよりも、仏教や神道などの多神教は寛容で平和だ、というふうに言いたいために持ち出すのが普通である。一般にはそれが聞こえよいようになっている。国家神道が他を一切排除したついこの前の記憶も水に流してしまうほど、それは自分自身に寛容であるということではないのか、と私は思う。人間だから、間違いはどの宗教者にもありうる。だがキリスト教は、自分の中の罪を見つめる。自分への厳しさの眼差しは根底にある。それができているかどうかという意味ではないので、ここで反感をもってもらうには早すぎる。
 この本のサブタイトルは「キリスト教的思考入門」とある。どうも、必ずしもこの人目を惹くタイトルはこの本全体の魅力を含んではいないように見える。そして実はこの本の前半40%は、キリスト教の一般的な概説になっており、いわば信徒や教会関係者は読まなくともさほど理解に影響のないような内容なのである。このことは、著者自身も自覚していて、「はじめに」でそのことに触れている。となると、確かにこれは本の帯にあることが適切であるということになる。そこには「非クリスチャンが抱く疑念にすべて答える」とある。もちろん「すべて」は大袈裟であるのだが、そこは商戦上の約束事のようなものであろう。戦争がその教義において必然的に至る結論であるのかどうか、という点について、著者は一定の意見を述べている。そしてそれは、決してあらゆる考え方を網羅し比較検討した上で論じきったものではない。この本は、決して論文ではないし、論拠をつぶさに提示しているような性質のものではない。だから学者肌の人には「すべて」というのがまやかしであることは明白なわけだが、そういうところを突いても何の益も得られまい。
 問題のその後半60%に目を向けよう。まず、一神教という観点。これは、しばしば非難される点である。自分の神だけが正しい、そのように言い張る者が出会えば、戦いが起こるのは必定である、というのである。そこで、キリスト教は戦争好きであるのかどうか、さらに深く検討される。十字軍や魔女狩りの歴史を提示することに著者は吝かではない。旧約聖書の中にある、いわば聖戦とも呼べるような部分についてもきちんと取り出しておく。いったい、義なる戦争というものは、存在するのだろうか。
 次に、貧困問題について触れる。信仰者は祝福され、この世でも栄える、という福音伝道が一部にあることは確かである。しかし著者はもちろん、そのような考え方に与しない。単に聖書の言葉を引用してああだこうだ、などという低次元の説教とは違う。大きな思想の中で捉えることをしようとしているし、しかも私たちの生活感覚というものも重視する。身近な喩えや、現代社会における問題意識からも見ている。今だからこその捉え方も当然あるわけで、頼もしい。特に、最後にマルタについて語られている部分が心に残った。忙しく家事をするマルタが、どうして、それではいけない、と言われなければならなかったのか、その疑問について現代の視点も交えて、そして家事とは何かという根底のところから思索を重ねて、考えようとするのである。この、哲学でもあり、また神学でもある部分において、聖書を読む者の思考はどうありたいものか、深く考えさせられるのであった。
 最後は、著者の近年の関心事でもある、いのちの問題についてである。最後に脳死と臓器移植の問題に立ち入る。これは単純に解決できていない問題のはずである。だが、現在、まるでそれはさも当然のことのように事実として成立しているかのようにさえ見える。そこには実は論理のトリックがある、ということを著者は指摘する。結果ありきで、そこから論理を掘り起こして正当であると示されているというのである。
 こうして見てくると、現代で問題になるいくつかの問題をただ並べたようであるように見えるかもしれないが、実際は違う。それは、著者には明確なひとつの視座があるからだ。それを私がここで明らかにしてよいのかどうか、少し迷うが、私なりの言葉でイメージを描くということでお許し戴こう。
 人は、誰か人格あるものとの出会いの中で、共に生きることを欲している。いや、それなしでは生きていけない。人のなすべきことや生き方は、たんに一般公式があって常にそれにあてはめれば解が得られるなどというものではない。聖書は理想の安らぎの場があると説く。だが、それはこの地上で与えられているわけではない。私たちはこの地上において、様々な変化や動きの中に生きる。答えはここでは与えられない。ただ、自分自身の考え方や行動さえ、変わりうるものとしてここに置かれている。それは、人格あるものとの出会いによって、そうなるのだ。人格との出会いにより、それまで気づくことすらなかったものに気づかせられ、自分が変化し、新たな世界への一歩を踏み出すことができる。それは自分だけの中ではできないことなのだ。人は、究極的な他者としての神と出会うであろう。だがまた、共に生きる兄弟姉妹たちとの出会いにより、実際の生活が成り立ち、展開していく。その場、その時により、なすべきことは違うだろう。答えは一つに見えないものだ。ただ、神の計画からすれば、すべては一本の糸によりまとめられているであろう。私たちにその解は分からない。今は分からない。ただ、事ある毎に神を見上げ、神との祈りの中で対峙していく中で、その神に導かれることを信じて、歩むことしかできないのだ。いや、歩むことができるのだ。
 やたら自分の高説を押しつけるような思想でなく、読者を、こうした思索の中へ導く本こそ、尊い。キリスト教は、だから押しつける律法に生きる者をでなく、神との対話の中で自分なりの道を教えられて見いだしていく者を生み出そうとしてきたのだ。  これは、もう著者というよりも、私の考えである。




Takapan
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