『クオーレ』
デ・アミーチス
和田忠彦訳
岩波文庫
\1140+
2019.7.
手に取ったのは、やはり表紙の一言解説に、「母をたずねて三千里」の原作があると書かれていたためだろう。以前は「愛の学校クオレ物語」との名でアニメ放送がなされていたと思う。
原題はただの「クオーレ」だけだ。イタリア語では「心」を意味するというそうだから、日本人は夏目漱石を思い起こすかもしれない。あるいはラフカディオ・ハーンだろうか。もちろん、内容はそうしたものとはずいぶん違う。
19世紀末頃のイタリアの様子を伝えてくれるものでもあるが、もっと普遍的なものが感じられるからこそ、こうして読み継がれているのだろう。これは学校を舞台とする物語である。否、一連の物語として読むよりも、様々な断片が切り取られて、アルバムに貼られているようなもののように見える。
エンリーコという小学三年生がまず登場する。彼が書き留めた、小学校での1年間のことを書いたおり、それを父親が少々手を入れ、さらに四年後の本人が自ら手を加えた、という事情がまず最初に明かされている。どこまでがどうなのか、分からない。ここからフィクションとするべきか、事実とみるか、そこからすでに物語の枠の中に読者は誘われていることにもなるだろう。
新学期の十月から、まるで日記をそのまま記したもののように、日付があり、出来事が語られる。あるいはまた、とうさんから、あるいはかあさんからの手紙がただ掲載されている。時に、「今月のお話」というものがまるまる載っており、愛国心を育み、あるいは子どもの勇気を描く物語が挿入される。その一つが、マルコ少年の「母をたずねて三千里」なのであった。それは翌年5月の「今月のお話」であって、最も長い。文庫で70頁以上を占め、読み応えがある。その他の毎月のお話も、どれも心に残るから、さながら短編小説集を見ているかのようだ。しかも、小学校に自分が通いながら聞かせてもらっているような錯覚すら感じる。
先生との触れあいもあるが、友だちとの関係が中心であろうか。いろいろな子が登場し、話が途切れ途切れに流れてくるのだが、その都度特徴的なことに触れられるため、個性も十分受け止めながら読み続けることができる。慣れないカタカナの名も、いつしか親しみをこめて響いてくる。
ゲスト的な子や、新たな登場人物もふんだんに見かけて、一筋の関連の中で辿ってゆくような窮屈さを感じない。ころころと、一つひとつの物語がスライドショーされてゆくかのようである。だから、どこからどう切り取っても構わない。短いものを一日幾つか読んでゆけば、しばらくの間退屈はしない。
逆に言えば、ストーリーを追うという楽しみがないように思えるのだが、それはそれで楽しめばよい。1年間の学級日誌を見渡しているような気持ちにもなってくる。
何かしら事情のある子どもも登場する。耳が聞こえなかったり、重大な病気であったりもする。その時代の背景もあるため、現代からすれば違和感を覚えることもあるが、それは仕方のないことだ。
7月に、一年の学びを終えるところで物語は終わる。その都度進級の可否があるようだ。特にストーリーやまとまりがあるわけではない物語としては、落ち着いた結末だと言えよう。これをテレビドラマやアニメにしても、十分通用するだろうと思う。そしてまた、「母をたずねて三千里」のように、一部だけを独立させても使える。
しかし、やはり全体を通して味わって、子どもの素直な眼差しを受け止めるのが、やはり一番よいだろう。タイトルのように、「心」が洗われるような体験をすることが、できるだろうから。

た
か
ぱ
ん
ワ
イ
ド