本

『キリスト教は信じうるか』

ホンとの本

『キリスト教は信じうるか』
八木誠一
講談社現代新書243
\480
1970.11.

 呑気なもので、これまで読んでいなかった。著名な神学者が一般向けに記したロングセラーだというのに。手に取ったのは、出版から半世紀を経てのことである。
 挑戦的なタイトルの下に小さな副題が付いている。「本質の探求」だという。どちらにしても抽象的な響きではあるが、この古い時期の講談社現代新書には、表紙に、本の内容が効果的に紹介されている。「現代にあってキリスト教とはいったい何か。キリスト教は、はたして現代人を救えるか。」こうした書き出しで、キリスト教の本質を問い直し、「病める現代人の心に、神との対話をうながす。」と締めくくる。  本質という言葉が特徴的だが、結論的に言うと、イエスとはあまり関係のない、哲学者の神という世界に迷い込むような案内ではないか、という印象を与えるものであった。
 ひじょうに哲学的な言葉をよく捉え、思考しているし、自分なりの論理を重ねていく。ときに仏教思想との重なりを意識し、特に西田哲学の考え方を多用しているところが目立つ。それはもちろん時代的な影響もあるに違いないし、一時それは東洋と西洋とを結びつけるものだと崇められ、京都学派という言葉がまだ生きていた頃には、今後日本が哲学で大きな力を世界に与えることになるだろうというような期待もあったのだろうと思われる。私もまたその一人であったのだ。
 戦後のキリスト教ブームを、若い感受性の時期に迎えている。著者は、その時に実に素直に聖書を信じている。この前提が、人生を決めてしまうというケースもたくさんあっただろうと思われる。アメリカに占領された中で、日本の敗戦からこれまで信じていたものへの絶望のような状態、いわば精神が路頭に迷うような目に遭った状態の人々が、教会に殺到したと言われている。だが、戦後はやはりブームであった。やがて厭きたのか理解できなかったのか、経済成長というものが神になっていったのか、人々は教会から去って行った。それでも、魂を聖書に、あるいは神に、捉えられた人も少なからずいたはずである。ただ、元からあった大和魂なのか日本文化によるものなのか、そしてまた禅などに影響された文化であるのか分からないが、キリスト教の中で、何か信じられないものを感じた人々が、少しばかり年齢を重ねると、キリスト教に対して、批判的な眼差しをもつようになってくる。特に理知的な頭脳の持ち主の中に、どこか理性的に納得できないところが生まれると、信仰するようにと言われていることと両立しなくなるジレンマを覚えてくるものであったろう。そのとき、キリスト教を棄ててしまうという選択肢もあったはずである。しかし、魂が捕らえられていたとするとき、そこまではどうしてもできない。しかしジレンマは覚える。そんな中で、キリスト教思想を、信仰の論理だけで捕らえるのではないという可能性に惹かれるようになってくることがあっただろう。特に、西洋側でも、自由主義神学や、文献批判の発達で、聖書をいわゆる福音的で信仰的な読み方でないものが学問的に優れているものとして表に出てくるようになってきたことと相俟って、しかしその西洋の論理だけでは含みきれない、日本思想の何かと結びつけて、キリスト教を新しく自分の納得のいくように説明しようとする試みが始まってくるということがあったのではないだろうか。中には自分の人生の中に出会った悲哀や切ない気持ちが、聖書の神の言葉を信仰的に解するところと合わないというように感じて、その自分の感情を、聖書から離れるところまではいけないが故に、整合的に説明すべく立ち上がり、逆に聖書に徹底的にこだわり、食い下がり、それを自分の中で収まることができるように解釈の筋道をつけていく、ということも少なからずあったように思われる。
 本書の著者は、確かに頭脳は明晰である。だから、非常に論理を見事に駆使して、自説が正しいことを訴えようとする。私は思う。それは著者の「信仰」ではないか、と。論理で攻めると、恰もそれが学的に真理であるように見えることがあるし、またそのように見せかけているのかもしれないが、必ずしもそこにあるのは学的な論理ではない。というのは、何々は何々である、と断言して次から次へと論を進めて行くのであるが、時折、そのように断定できるものかしら、と首を捻るようなことがよくあったからである。ソクラテスが、ソフィストたちを論破したときのように、尤もらしい断言をくり返していけば、どのような結論にでも向けていくことができる。相手が、その論理の難点を突いてさえこなければ、思うがままの方向に導いていくことも可能なのである。
 著者は、「統合体」という概念を説明しようと力をこめる。そのために音と音楽との差異に読者を注目させる。その後、人間の統合的な姿として要になるであろう「人格」を長く説明する。やがて、キリストはロゴスであるとして、教義に関する用語について、一気に説明を重ねていくのである。
 特に自身の導かれた、プロテスタント教会に対する、反発のようなものが強かったのだろう。福音的な信仰を子どものように受け容れることができないために、論理武装した形で自身の聖書理解を連ねていく。私は、それがいけないとは言わない。ただ、それもその人の「信仰」なのだとしか言いようがないのではないか、と思うのだ。それが恰も聖書理解の唯一の「本質」であり、「真実」であるかのように振舞ってはならないはずなのである。
 自分が素直に信じていたことが、まるで「信じさせられていた」かのように思い込み、それへの強烈な反発が、このような形を取るということは、ありうることであると私は思う。トラウマのようになってそうしていくこともあろうし、恨み辛みのようなものからそうすることもあるだろう。ただ、本来ならば、キリスト教から離れればよかったのだ。あの、戦後のブームが去ったときに教会を去った多くの人々のように。だが、著者のような独特の「信仰」をもつ人たちは、どうしてもそれができなかった。そこに、神の憐れみなのか導きなのか分からないが、何かがあるのかもしれない、とは思う。ただ、この読み方だけが正しい、というような提示は、たとえ学問という形をとっていようと、よいものではない。他の人の「信仰」を破壊する作用を及ぼすことがあるからだ。名の知れた先生だと、大きな影響を与えるからである。一見学問的な体裁をとっていても、聖書のひとつの解釈であり、他の思想に基づく聖書思想の組み立てであるのだから、これは自分の「信仰」であるという表明をしておいてほしいと思うのだ。
 こうした方々の聖書解釈には、一種の特徴がある。それは、聖書に忠実であるということだ。聖書についての自分の解釈が正しいということを言うためには、その「聖書」というものが正しくなければならない。そこで、ギリシア語ならギリシア語に、徹底的にこだわる。そのギリシア語そのものが私たちの知るものとは違うものを指していようとは考えないし、テクストが間違っているとは考えない。その意味では、むしろ徹底した聖書主義が貫かれていると言えるのである。恐ろしいまでの聖書の語への執着、それが実は、自分の解釈の正しさをバックアップするための前提となっているということを、私は常々感じているのである。その聖書研究の成果は、とありがたいと思っている。




Takapan
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