本

『キリストのユーモア』

ホンとの本

『キリストのユーモア』
D.E.トルーブラッド
小林哲夫・悦子訳
創元社
\730+
1969.9.

 古い本は本当に知らない場合が多い。有名な方の著作や、他の本で引用や紹介があるものは、それなりに探して手に入れるなどもできるが、小さなあまり知られないままになっているようなものは、偶然の出会いで古書店で手に取るというのが普通である。
 本書もそのような出会いによって読むこととなった。それは、聖書のユーモアについて考えていたところだったので、目についたというわけである。そのようなテーマのものはそう多くない。これは読む価値があるのではないかと、いまの新書並の値段がするのは私にとり安い買い物ではない部類なのだが、すぐに購入した。
 あとがきによると、内容的には難しいものであるらしい。しかし、スタンスははっきりしている。聖書の記事を、ユーモアという視点から捉え直す作業をしているのだ。もちろん私も、イエスのもつユーモアという点で、気づくことがないわけではなかった。イエスが大笑いしたなどという記事はどこにもないし、パウロもこの人は笑ったことがあるのかと思うような手紙の文面である。しかし、ユーモアで言っているのだろうと思うくらいの想像力は持ち合わせていたので、翻訳の問題もあるが、それなりにここはふざけて言っているのだと感じることはあったのだ。が、本書により、こんなところもユーモアだったのか、と驚くことが度々あった。
 著者は、この視点で聖書を読み直そうとしているから、当然たくさんの場面を引っ張ってきて、これもおかしみがあることなのだよ、と教えてくれるつもりであったはずだ。が、それは私の予想以上に多かった。
 著者が指摘しているとおり、信徒は、あまりにも聖句に慣れ親しんでいるのだ。これはこういう意味だ、ここからこう学ばなければならない、自分を見つめ直すためにこのように受け止めよう、とある程度の型が決まっており、説教でも毎度そのようなメッセージが繰り返される。特に欧州では、説教箇所が団体などで決められていて、しかも数年に一度というサイクルでそれが巡ってくるというのだから、引かれる聖書の箇所も定番となっていきがちであるから、なおさら、聖書の読み方というものは限られ、あるいは同じことが繰り返されるというふうにもなりうるのだろう。
 そこで、自分の想像するキリストを離れて、そこに実際に描かれているキリストと出会おうとする、フレッシュな思いが必要であると説明している。これは、聖書を読むときに、実に適切なアドバイスであると思う。ああまたあの話か。結論はこうだよな。そんな構えで読む聖書から、何の命が注がれるであろうか。何の恵みを受けることができようか。
 この視点が、ユーモアという点で実験されていくような思いで、本書を読み始めることができるのは、著者のこの序が効果的であったということになるだろうと思う。
 一つひとつの解説に、わりと専門的な注釈まで入っている。確かにこれは生半可な入門書ではない。どうしてユーモアが必要だったのか、それを哲学的な視点でも捉えて説明しようとする。その思考に慣れていない人には確かに難しいと思われるかもしれない。だが実にたくさんの実例を以て紹介してくるので、本書に触れることで、今後、新約聖書の読み方が変わってくるのではないかと思う。
 その箇所がどのような意味に解釈されているのか、幾人かの解釈を持ち出して論ずるのもこの本の特徴である。誰それはこう言っている、誰それはここをこのような意味にとる、その繰り返しが多いが、多様な見方があることを知るとともに、そこを皮肉と受け止めたり、わざと嘘を言っているのだと理解したり、茶化しているのだろうと考えたりすることは、確かにそう誰もがやっていることではなかった。思い切った解釈を著者は展開しているのかもしれない。キリストがこれを語るときの表情はきっと笑顔であったに違いない、などと言い始めると、人によっては勝手なことを言うなと怒るかもしれないが、どうぞ怒らないで、それこそ笑顔で聖書や本書に触れて戴けたらと願う。
 巻末には、共観福音書に限るが、ユーモアがあるとされる聖句が附録として並べられている。いままでだったら、それらをすべて生真面目に読んで理解しようとしたかもしれない読者が、思わず目を細めてそれらをわくわくとした気持ちで拾っていくようになったら、きっと著者の思惑通り、ということになるのであろう。あ、私はその思惑にすっかりはまっているので、ご安心ください。




Takapan
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