本

『キリスト教における死と葬儀』

ホンとの本

『キリスト教における死と葬儀』
石居基夫
キリスト新聞社
\1800+
2016.6.

 題が的確だと思う。内容と合致している。当たり前のことかもしれないが、最近は、販売戦略からか、中身とタイトルとがずれているものに巡り会う機会が多かったのだ。
 副題には「現代の日本的霊性との出逢い」とあるが、これもいい。「出逢い」も、思い入れを感じる。「出合い」だと、意外であり突然の感じがするし、「出会い」は極めてノーマルだ。しかし「出逢い」だと、より親しいものとして、だが改めて対面するような趣がある。そう、日本的霊性は、私たち日本人にとり、あまりにも身近で当たり前であるために、意識すらできないことでありうるのだ。
 キリスト教信仰をもつようになると、これまでの死生観が実はどうであったか、意識する場合がある。何事も、対比すると意識されやすい。これは、著者のように、父を牧師とし、生まれ落ちたときからキリスト教環境に生きた人ですら、日本人的な感性がどこかに存するほどに、この風土に根づいているものである。
 では、その中で、キリスト教信仰をもつ者は、死に対してどのように向き合うとよいのか。あるいは、もっと現実的に、葬儀をどのように営むことになるのか。そのとき、その信仰をもつのではない人々も招くことがあり、また、キリスト者の家族がそうでないということもある。実際に、どういうトラブルや意外な対応があったのか。これは、牧会生活を続け、葬儀に携わってきた人であるからこそ、経験してきたものであるから、それをこのようにオープンにしてくれると、実に助かる思いがする。
 従って、本書は、聖書から死や葬儀について神学的に論じたり、教義がどうなどと説いたりするものではない。著者はルター派の教会に育ち、そこに生きてきたのであるから、どうしてもルターには詳しい。だがそれもありがたい情報となる。プロテスタントのすべてがルターに従うとは言えないかもしれないが、その見解はひとつの標準となっているとも言えるだろうからだ。
 全体的に、対応は、人の心に優しい。聖書はこう言っている、などと大上段に構えるような気配は、どこにもない。日本人の悲しみや、死生観を理解し、寄り添う姿勢を、随所に感じるものである。だが、それでいて、聖書という軸からすっかり流されるようなこともない。この辺りのバランスの絶妙さを、私は本書で学ぶ思いがした。
 著者は牧師である。牧師としての立場からこそ必要なことも、一般信徒に語ってくれるとありがたい。「牧師にこそ牧師が必要」という章が設けられている。自身の死という問題を「一人称の死」と呼ぶならば、遺族や親しい人の経験する悲痛を「二人称の死」ということもできるだろう。牧師は、教会員の死に対して臨むために、この「二人称の死」に、頻繁に陥るのだ。その心理的ダメージは、一般の人々よりも多く、深いものだろう。だから、その牧師をケアする立場の人が必要になるのではないか、という提言である。これは、死と葬儀の問題に限らず、常々思う。著者は、先輩の牧師や地域の牧師にそれを期待しているような書き方をしているが、どうして牧師という肩書きの中でしか求められないのだろうか。これでは、その牧師もまた別の牧師を必要とし、というふうに、無限遡行になるか、また元の人にケアを求めるように戻ってくる輪環現象になりはしないだろうか。どうして、牧師でない信徒に、それを向けることができないのだろうか。どうせ神学校に行っていない者には分かるまいとでも思うのか、信徒に対する守秘義務があると線を引くのか、理由はよく分からないが、そういう視点が、無意識のうちに欠けているのだろうか、という気がした。
 これまで著者が経験したようなケースも、多く取り入れられている。もちろんプライバシーに配慮したものだが、こうしたレポートは、物事を分かりやすくもするし、私たちが実際に出会う場合を予告するようなことにもなる。本書の良さは、おそらくそこが大きいものだろう。聖書の引用そのものは実に少ない。読者はすでに教会生活をしているという前提であると思うが、それはそれでよいと思う。従って、限られた読者になってしまいはするが、キリスト教に関心をもつ人にとっても、死生観について考えるときには、参考になるものと思われる。
 特に、作家の天童荒太氏との対談と、その本に関する著者の意見が、ひとつウリになっているということを別にしても、味わい深い。天童氏は、キリスト教信仰をもつ人ではない。だが、死者を大切に扱う小説を上梓したことから、この対談へと導かれているのだろう。互いに学ぶ対談風景は、好感が持てた。また、そこから次には希望へと向かって筆を進めたいという天童氏の姿勢も、頼もしく思えた。私も、そのようにしたいと心から願った。
 本来だったら隠したいような、失敗談も、葬儀についての批判も、時折載せてある。いろいろな考え方や捉え方があり、また死に対する考えや悲しみも様々であることを、しみじみと伝えるものである。私はそれでよいと思う。クリスチャンの方が亡くなったときに、SNSには、「凱旋」とか「ハレルヤ」とか、見事な信仰の言葉が並ぶことがあるが、著者は決してそのような態度は取らないし、垣間見せもしない。私は、その通りだと思う。
 キリスト教から一歩引いている、キリスト者の家族や親族の方々にも、本書はお薦めできる、良書である。なによりも、心がこもっている、あたたかな本である。




Takapan
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