本

『キリストの臨在を告げる言葉』

ホンとの本

『キリストの臨在を告げる言葉』
R.ボーレン
米田勝訳
日本基督教団出版局
\2524+
1995.6.

 ボーレンとくれば、加藤常昭氏の名前が結びつく。それほどに厚い師弟関係であるはずなのだが、本書の訳は米田勝氏である。しかし、訳文を加藤常昭氏も目を通しているというから、拙い結果にはなっていないはずである。
 実際、読みやすい文章だった。それはまた、ボーレンの手際の良さに基づいているものなのかもしれない。
 これは説教集である。一つひとつはそう長くはない。比較的行間のある構成の中で、10〜20頁くらいのものであり、最後には祈りが1頁分くらいあるから、少しまとまった時間があれば、一つはすぐに読める。
 これらの説教は、洗礼と聖餐についてのものである。テーマが定まっていたらしく、これもまた、読みやすい要因と言えるだろう。
 ボーレンは、説教について非常に強い関心がある。洗礼が重要だとしても、「信仰は洗礼から生まれるものではなくて、むしろ説教から生まれるものです」(p49)と言い切っている。説教が教会を成り立たせ、福音を決めるというほどに、説教に対して熱い思いを懐いている。それが弟子の加藤常昭氏にも伝わり、こうして日本において説教塾の活動や、説教へ情熱と使命感をもつ牧師や説教者を多く生み出すことへとつながっている。
 説教は、そう多くない聖書箇所に基づいており、同じ箇所から別にまた語られた場合もある。それは、聖書の言葉にちょっとした「解説」を付け加えるような、「講演会」めいたものではない。パウロの言葉の背後にあるものがここまで届くし、またそれが現代の私たちに語りかける声であるとして聞きとる姿勢が、痛いほど伝わってくる。
 聖書の言葉から連想されるものが、豊かに語られる。聖書の他の箇所にも触れられるが、なにより縦横に、聖餐と福音の恵みが、見事に連携して流れてゆくのだ。  こうして私たちは、説教から神の言葉を聞く。「神の奇跡の出来事を思い起こすことによってのみ、私たちはきょうも、明日も、神の奇跡を見ることができるようになる」(p93)との言葉が私に力を与えてくれる。だからこそ、日々説教を一つずつ読んでいきたい、と求めてゆくのだ。
 そしてまた、「イエスが私たちのためにしてくださったことを忘れないで、そのことを思いだしていること、それが信じるということであり、それが神のみわざをいつも信頼して事を行うということなのです!」(p132)というような言葉を、私もまた、聖書についてのメッセージで語りたいものである。
 説教は、必ずそこに聴く人間がある。その人の顔を見ながら、その人の心に語りかけてゆかねばならない。「神を自分の心よりも大いなる方としてください。そしてこの大いなる方が、砕かれた心のかたわらにおられることに、私と一緒に驚いてください」(p187)と、共に主を見上げ、主からの言葉を聴く、そんな言葉を人々に告げたいと切に願う。
 しかし、安楽な気持ちだけでそれは賄われるものではない。イエスの苦しみをも、説教者は忘れない。しかも、それは個人として辛いなどというものではない。キリストの体としての教会が痛みを覚えることの自覚が必要である。「イエスの教会として私たちは、主に従うことにおいて、自由な服従において苦しみを共に負わなければならないのです」(p223)というような決意もまた、神への信頼であり、信仰であるに違いない。
 教会を大切にする、というのは、こうしたスピリットに包まれている、ということではないだろうか。本書は、このような語りかけに満ちている。読みやすい説教集である。話題は洗礼と聖餐であり、教会という主体が当然そこにあることになるが、キリストを信ずる者一人ひとりの足場が何であるか、を確認させてくれる。自分は独りではないのだ、という勇気が与えられる。古書で、定価より安価に入手が可能のようである。お薦めしたい。




Takapan
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