本

『キリスト教の起源』

ホンとの本

『キリスト教の起源』
藤巻充
日本ホーリネス教団出版局
価格不明
1998.12.

 古書店で見つけた、レアな本。たぶんレアだと思う。日本ホーリネス教団というのは、第二次世界大戦のときに迫害された団体の一つだ。ということは、その信仰を表に出して目をつけられたということでもあり、安易に国になびかなかった、敬服すべき姿勢があるのではないかというふうにも思う。福音的な立場で、聖書をそのままに信仰するということや、個人的体験ときよめを大切に考える。
 そのホーリネス教団の牧師が、キリスト教の初期の段階のために、ハードカバーの硬派な本を出している。ぱらぱら店頭でめくったところ、引用文献もたくさんあるようであり、きちんとした学術的体裁をとっている。必ずしも安くはなかったが、そのまま購入することにした。
 例によって私は、一日少しずつ読んでいく。一カ月とはいわないが、それに近い日数をかけて全部を読み通すことになる。
 学術的なのかと期待したが、必ずしもそうではない印象をもった。信仰生活を豊かにするため、というものでは確かにないが、研究書としては緩い。副題としては、「歴史のイエスと原始キリスト教団成立への一考察」とあり、序文で明示しているように、本書は、「史的イエスの問題」を説明し、イエスの歴史的な姿を目の前に示し、とくに教団のケリュグマというものを明らかにしようとする。そして、キリスト教団が成立する中で、果たしてどのように私たちは歴史的なキリストの姿を考えることができるかを問うというものである。
 だが、いざ論が始まると、これは著者の見解がふんだんに述べられているというよりも、様々な神学研究者の意見というものを羅列してあることに気づく。第一章の「歴史のイエスの問題とは何か」には、ケーゼマンに始まり、ボルンカムだのブルトマン、エレミアスだのという名前が各節のタイトルになっており、このようにして海外の神学者が10名、並んでおり、続いて日本人の研究者も続いて3名が挙げられている。各研究者の考え方を要約整理しているだけのものである。
 つまり、これは一種の教科書なのである。
 確かに、それだけではない。何がどう問題なのか、問題点を明らかにすることも行う。また、著者自身はこう考える、というように、時折申し訳に意見を零しているが、それの論拠を延々と論じるようなことはせず、軽く呟く程度である。いったい、著者自身が何をどのように何故そう結論づけるのかということを論じることはないと言ってよい。ぼそっと呟くくらいなのである。
 続く「歴史的イエス像」というテーマでも、「ケリュグマ」についてでも、姿勢はほぼ同じである。ということはやはり、この本を以て神学校でこの問題について学ぶには悪くないものなのではあろうが、そういうための本として求めるのでなかったら、少しがっかりする。かつて哲学科でも問題になっていたが、前世紀、哲学科でしていたことは、海外の研究者の考えを要領よくまとめて紹介することができたらそれで仕事になる、というようなことがあった。本書はそれに似ている。よく勉強なさっていることは認めるが、勉強したことを要約整理してまとめて提示した、ということ以上のものを読者が感じることは、基本的にない。
 また、中途で、イエスとの出会いを大切にするという考え方が現れたとき、そこに強い共感を著者が示しているのはよく分かったが、後半は、このベースで、ケリュグマでも史的イエスの姿をもたらす場面でも、聖書の読者がイエスと出会うことを目指してこその聖書なのだというような姿勢に傾いていく。また、「イエスの宗教体験」というものがいかに重要であるかを語っていくので、著者の考えというのはそういうところにあるのだということは伝わってくる。だが、それを教科書的な記述の延長のようにして記しているので、時部かん゛このように解釈する根拠を論じていくという印象はない。説明をしていくうちに、なんとなく、体験や出会いが大切にされていたのだ、と自分の言いたいことを自然に見せるようにしていったかのようだ。
 だから「結論」という最終章でも、結局「本書の要約」という節のタイトルがあるが、要約となると各神学者の考えの要約なのだから、自身の持論を強く前面に出すというふうには見えない。そして決定的なのが、最後が「将来の計画と展望」として、これからこれこれについて考えてみたい、というようなまとめかたで本書が終わるのであるが、これは大学生の卒業論文の終わらせ方ではないか。これだけの装丁を施し、大きな本で300頁も使っておきながら、今後このようなことを考えたい、しかもあらゆる宗教体験につながるものとして多くの宗教名を挙げて結ぶなどという結末は、いかに海外の大学で幾度も学んでいた著者にしても、64歳で著したハードカバーの本の結末としては、いったい何だったのだと思わせるものとは言えないだろうか。
 だから、多くの神学者の考えを学ぶための教科書として読むべきなのだ、と言おうとしたが、しかし果たして本当にそれらの神学者の考えを要約していると言えるのかどうか、それを信用してよいのかどうかも、少し怪しく思えてきた。「私はこう考える」と随所に書かれてはあるものの、その論拠が実は殆ど示されていないことなどからしても、多くの文献を読破する能力をもちながら、ついには何をも業績にはできなかった学者紛いの姿なのではないか、というふうに思えてならないのである。これは悪口ではない。私が若いころ、哲学について、それと同じことを辿っていたからこそ、していることがよく分かるのである。




Takapan
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