本

『キリストの復活』

ホンとの本

『キリストの復活』
メリル・C・テニイ
いのちのことば社出版部訳
いのちのことば社
\250
1962.4.

 これまた古い本を見つけた。90頁あまりの薄い本で、B6サイズである。
 キリストの「復活」に焦点を当てた信仰のための本である。いのちのことば社という福音派のための出版社が発行し、そかもその出版部が訳したとしているから、なおさらだ。昔はこのような、良き信仰書が多くあった。キリスト者は、薄手のものを比較的気軽に手にして、魂の養生に努めたのである。この種類のものは本当にたくさんあった。だから私は珍しいとは思わないが、若い人たちは、不思議なものと思うかもしれない。
 道徳の本ではないが、まるでそういう本のように、これは善いことに満ちている。つまり、それは聖書学の本ではないし、何かしら証明をしようというようなものでもない。知識を増やすためにと求めると期待はずれになる。
 しかし、魂を豊かにする、生活に潤いを与えるということには実に向いている。そもそも信仰生活を適切なものにしよう、善く生きようと思うところに本を手に取る動機があるのであり、聖書の深い知識がなくても、信じていますよ、という人に広く役立つものなのである。
 えらく気取った「序文」に、時代錯誤を感じる人がいるかもしれないが、恰好つけでなく、どうか自分の信仰生活のために、こうした世界を知らない方はぜひ足を踏み入れてほしい。
 ところで「復活」だが、本書でも初めに触れているように、信仰者にとり、案外軽視されている印象が、確かにある。クリスマスへの祝い方の派手さや荘厳さに比較して、イースターはそこまで盛り上がらない。まして、受難日を意識するということはさらに少ない。だが復活こそ、パウロが、それなしでは何も意味がないと叫び続けたように、キリスト教信仰の要である。もちろん十字架は大きい。だが、十字架で終わるようなものであれば、敗北の宗教であろう。復活という栄光の輝きがあってこその十字架だと言ってよいだろうと思う。
 それでいて、復活ほど、「信じられない」という声の多い事柄もない。いつかキリストがまた来る、というのは、ある意味で期待であり未来のことであるとして、信じる気になれば信じられるというものである。しかし、復活は、過去の出来事である。これが如何にして可能かということにおいて、私たち現代人は、すっかり懐疑的になってしまった。それを、本書の著者も厳しく感じており、危機感を懐いている。何も最近の傾向ではないのだ。こうした背景が、いま欧州でのキリスト教の衰退となって現れているというふうに捉えるべきなのかもしれない。萌芽はすでにあったのである。だからまた、いまのちょっとした風景が、将来の大きな出来事の発端だったというように振り返ることになるのかもしれない。
 章立ては、「復活の」と冠をおいた下に、事実・予測・信仰・自由・効力・熱情などと、非常に抽象的な形で展開していくため、予めその内容を推し量ることは難しい。だから、その説教めいた叙述を、ただ辿ればよい。ずいぶん強引に引っ張っていくな、と感じる人もいるだろうと思うし、聖書の知識があれば、そうは思わないな、と抵抗を覚える読者もいるだろう。
 だが、これは聖書学の講座ではない。歴史書でもない。問題は、私の心が生き生きとされるのかどうか、ということである。時に、それはどこか「霊的に」読まれるべきものである。自分の生き方の可能性を賭けて、神と差し向かいになるほどの魂の叫びを内に秘めつつ、神の声を聞く思いで接するのである。それは、この文章が神の言葉だ、と断定するものではない。だが、私たちはそうするうちに気づくのである。自分の理解や思いこみから考えるのではなく、また科学的な調査や偉い学者の介錯に左右されるのでもなく、私が生きるか死ぬかの瀬戸際にあるものとして、神から何かください、という思いで読むのである。すると、行間からか、頭の上のほうからであるか分からないが、恵みの霊が、私たちを支えて強めるために来ることだろう。注がれることだろう。
 そもそも、これを素直に読めないということは、心に覆いがかかっているのだ、と第二コリント3章が記しているとおりの様子なのかもしれない。私たちには、何らかの形で、信仰の書があることが望ましい。聖書に代わるものではないが、多くの気づきを与えてくれる。聖霊の力を受ける備えとなるはずである。




Takapan
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