本

『キリストとイエス 聖書をどう読むか』

ホンとの本

『キリストとイエス 聖書をどう読むか』
八木誠一
講談社現代新書
\605
2015.3.

 この発行年は、電子書籍としての発行年である。元々1969年に出版されている。全体的な印象としては、もちろん八木誠一という人について予備知識のある方は、思い描いている通りなのだが、かなり理屈っぽい。皆さん聖書を信じましょう、というような風ではなく、聖書を哲学や文化の中で、なんとか誰にでも近づけるような、思想的な読み物として読者にぶつけていこうとする意気込みを感じる。そのため、哲学的な説明に走ったり、時に仏教と同じだと繰り返したりするように、教会生活をする人からすると、ついていきづらいような言い回しや章がずいぶんあるように見えるかもしれない。著者自身も、初めに、新書という形にしては思いのほか難しくなってしまったかもしれない、と漏らしているが、確かにかなり哲学なり神学なりの基本を踏まえていないと、読み進めることができなくなる虞はあるだろう。また、このような聖書理解をすれば聖書が分かるとか、信仰できるとかいう性質のものではない、ということはここで確認しておいてよいのではないかと思う。著者なりの、「聖書をどう読むか」についての格闘の記録であるかのようにさえ見えるのだ。
 タイトルには「聖書」とあるが、イエスにまつわる本であるため、新約聖書に限定して構わないだろうと思う。しかし「新約」の語がなければ、旧訳も踏まえたキリスト論かしらとも予想する場合がある。
 いわゆる歴史上の事実であるかどうか。この点は基本的に一蹴する。そしてどのようにして聖書がこのような形で成立したのか、それは何故か、そこに目を向ける。すると、原始教団と呼ばれる初期の聖書への第一歩をつくる集団の中で、3つの神学があったと思われると分析する。共同体性を重んじる神学A、個人性を尊ぶ神学B、仲間との愛など対人性を重視する神学C。そしてこれがパウロにおいてつながれていって書簡が成り立っていく様子を考える。
 そこから神・キリスト・聖霊という、後に三位一体などと称される神観が形成されていく様を想像し、復活信仰の成立を考えていく。それは現代の私たちが復活をどう捉え、また信仰していくかという問題にも関わらざるをえなくなる。そのとき、徒に聖書を中心に掲げて原理主義に向かうと、実のところ神よりも聖書という書物を上に置くような倒錯が生じてしまうことになり、なおかつそのことに気づきにくいので恐ろしいという見方をする。キリスト教は、歴史故の宗教ではない。「神の支配」そしてまたそれはつまり「復活のキリスト」と呼んだもののことなのであるが、そこにキリスト教は成り立っているのだという見解を示すことになる。わざわざ「復活のキリスト」という別の形で取り出したところに、著者の思惑がある。他の面のキリストとこれを安易に一緒にしてはならないのだ。たんなる自由主義神学もよろしくなかったが、それを否定した弁証法主義神学もまた、これを区別しなかったならば、進展はしていなかったのだ、と強気で告げる。
 最後に、宗教的実存という項目を大きくとり、当時世界を支配していたであろう、実存主義の枠に引っかけて、宗教を、また信仰する主体について考える。ここで、実は仏教とつながるものがある、と流れていくので、いま読まれる方は注意されたい。しかも話は悟性や理性という、カントなどの哲学を踏まえた議論が急テンポで進む。宗教は、独断的な知性を越え、著者が想定するような理性の導きで到達しなければならない宗教的実存へと進まねばならない。しかし、そこに「無」としてのキリストなどという話も混じってくるので気をつけたい。キリストは「場」であるとか「空」に近いなどと言われてくると、西田哲学をも絡ませるつもりなのか、とこちらも戸惑いを隠せないが、教会たるものについて軽く触れて、本書は閉じられる。
 非常に哲学的な概念を駆使しながら、新しい知性の立場というか、理性の助けによって聖書を理解しようとする試みであった。それが著者による「聖書の読み方」なのであろう。ただ信じます、というのでなしに、聖書をどう読むか、という角度から捉えるならば、これはこれで面白い見解であると言えるだろう。そしてブルトマンも当時は絶対的な権威のようなものであったから、その慧眼と、またさらに物足りないところなどを持ち出してくるのも肯けるが、さて、20世紀の巨人としてのブルトマンの弟子たちももう年老いた。新たな時代の中で、神学的経験も、根底から変わってきているように感じられる気もする。世界の宗教情況も変わり、キリスト教とてかつてのような圧倒的優位さを以て世界で発言できなくなってきている。そしてヨーロッパを中心に信仰者が激減し、アメリカはアメリカで別の形の信仰集団となっているようにも思える。南アメリカは安定しているようでもあるが、アフリカやアジアでの進展が目覚ましく、従来の神学がそのまま生きて働いているかどうかも疑問である。著者の哲学的に説明しようという試みには敬意を払うが、私たちが次にどうするかが問われているはずである。むしろここにある議論を反面教師の俎として、私たちの刻む神学あるいは信仰の生き方というものを、提示していかなくてはならないのではないだろうか。そう、私たちはいま、聖書をどう読んだらよいのだろうか。この問いだけを、受け止めてみたいとさえ思う。




Takapan
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