本

『キリスト教と文明』

ホンとの本

『キリスト教と文明』
エーミル・ブルンナー
熊沢義宣訳
白水社
\3000+
2001.5.

 本書は、1975年3月に刊行されたものを改めて発行したものであるそうだ。
 ブルンナーとくれば、「出会いとしての真理」がすぐに頭に浮かぶであろう。日本を愛し、一時日本で教鞭を執っていた。訳者はその教えを受けた一人であるという。スコットランドのセント・アンドルーズ大学において行ったギッフォード講演なるものが、ここに訳されている。1947年の講演であるという。時は第二次対戦終了直後、西欧諸国では、共産主義の脅威に包まれていたかもしれない。新たな世界地図が構成されようとする中で、西洋文明の限界や問題が明らかにされてきており、新たな思想がどう世界をリードするか、何も見えていない情況であったことだろう。
 特に、キリスト教はこの中で何ができるのか。従来西欧をリードしてきたようには、もうできないだろうという見通しは明らかだった。その中で、神学者としてのブルンナーは、キリスト教と聖書の理解を基盤に、文明を支える概念を捉え直し、キリスト教の復権を図ろうとしているかのように見える、そのような展開がここにあるようである。
 扱うテーマが一つの章になっていて、存在あるいは実在、真理、時間、意味、宇宙における人間、人格と人間性、正義、自由、創造性と続く。
 キリスト教を離れて思想が華やかに進んでいるようにさえ見える近代の中に、それはよくない、というスタンスが明らかである。神抜きで思想を全うできるのかというところを検討し、神を踏まえての思想であるべきだと持ちかけるのである。そこは西洋人であるから、哲学に対しては一定の知識がある。これが日本人だとなかなかそうはいかない。哲学という素地がないからだ。論理を貫こうとしているようでありながら、誤った論理をさも真理であるかのように思い込んでいることが多い。論理が教育と文化の中に根付いていないのだ。だがスイスもまた、ドイツ文化の渦の中であり、西欧文明が根柢にある。ブルンナーの指摘する哲学は、哲学専門の場から見ると甘いものがあるにしても、一定の議論になっている。ただ、どうしても神の言葉の生き生きとした体験めいたものがあるという前提で、熱く語り始めてしまうところが、そうでない人にとってはどう目に映るかというところが気になるところである。
 プロテスタント神学である。カトリックの、科学に対する扱いをよしとするものではない。近代科学をもちろん認めないような極端な話を始めるわけでもない。それどころか、キリスト教神学もそうした勢いに惑わされ、何かを見失ったという反省点をも踏まえている。するとそこへ、やはり幅を利かせてくるのが、ブルンナーの出会いの真理であり、個人的に神の呼びかけに応える体験めいたものである。私は実はこれに共感する者である。言っていることは感覚的に分かると言ってもよい。ただ、それが文明や哲学を論ずることができるかというと、それは無理というものだと考えている。そこへ挑戦した著者の、はつらつとした若さすら漂わせるこの情熱である。現代の私たちに必要だったのは、こういうものなのかもしれない。
 著者は、ヨーロッパの没落が言われて久しい中、二度の大戦で疲れ果てたヨーロッパは、ますますこの先細りゆくものであることを予感していると思う。アメリカが世界の覇者となる、あるいはソ連の共産主義が勢力をもしや強くしていくか、そこも心配しているのだろうが、この二大対立が世界を左右するであろう近未来において、ヨーロッパと、それが伝えてきたキリスト教文明が、隠れて消えて行くようなものであってはならないのだ、という強い信念が、終始貫かれているのだと感じる。
 この警告と希望は、ただの文明論の範疇に収まるものではないだろう。これは、思想の危機でもなければ、ヨーロッパの危機だけに留まる懸念ではない。キリスト教世界が、この中で何ができるのか、を問おうとしているのではないだろうか。そしてその問いは、何十年と経ったいまでも、同じように問われているのではないだろうか。否、受け継いだ私たちが、問わなければならないのだ。ブルンナーがひとりで踊っているわけではない。私たちが、この問いを問い続けなければならないのだ。
 そうでなければ、私たちが呼んでいる「福音」は、ちっとも福音ではなくなってしまうではないか。




Takapan
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