『カラヴァッジョ《聖マタイの召命》』
宮下規久朗
ちくまプリマー新書345
\950+
2020.2.
良い本に出会えた。多くの著書があり、イタリア17世紀バロック美術を専門とするという紹介があるが、美術史全般にももちろん言及が届く。特にカラヴァッジョについては何冊もの本を呈しており、読者層や目的に応じて様々な角度から論じているようである。
本書は、その中でも分かりやすさで脚光を浴びるべきものであろう。ちくまプリマー新書は、高校生くらいを標準に書かれており、特に専門的な知識がなくても、十分伝わるようにつくられている。
カラヴァッジョの作品の中でも、「聖マタイの召命」に絞った光の当て方は、私たちにも参考になる。あれもこれもと広く浅く論ずることも、もちろんできるだろうが、そういうカタログ的な見聞の知識よりも、一つの作品をじっくり見つめて、そこから掘り下げて、理解の幅も広げてゆく。学校の授業でも、ひとつの作品を一年間読むなどという方法が話題になったことがあるが、それはやや極端であるにしても、場合によっては非常に有意義な学びができるものである。サブタイトルに「一枚の絵で学ぶ美術史」と掲げてあるのも肯ける。
しかし、最初から最後まで、一枚の絵だけを見つめているわけにはゆかない。そもそもルネサンスと宗教改革の背景の歴史や、イタリアの風土などを十分描くのでなければならない。
また、この「聖マタイの召命」を解するには、画家本人についても辿る必要があるほか、聖書そのものを解説しなければならない。日本の高校生に対しては、「周知のとおり」というわけにはゆかない。一枚の絵を語るためにも、実に様々な角度から、たくさんの情報を提供しなければならないのである。
まずは、この絵が1600年にローマの教会で公開されたことから語りは始まる。それが何故人々を驚かせたか。美術史上大いなる意味をもつようになったのか。バロック美術の始まりとされるこの絵には、どんな意味が隠れていたのかは、後ほど明らかにされる。
そして、同じ「はじめに」に於いて、本書が問いかける重要な問いをいきなり紹介する。そもそもこの絵の中で、「マタイ」はどの人物なのか。それがはっきりしていないのだそうである。二人のうちのどちらかに絞られることは確かであろうが、従来髭の男だと殆どの人が考えていた。それが常識だとされていた。だが、うつむく若者であるという解釈も成り立つと言い、著者はそちらに肩を持つのであるが、結論はともかく、そういう捉え方を持ち出すためにも、歴史的にも美術そのものからしても、また信仰からしても、十分な理解を重ねて迫らなければならない。そのために本書は、いろいろなことを説明し続けるのである。
なお、予めお伝えしておくべきことだが、本書は最初に16の口絵が掲げられている。その5つまでが、当該の「聖マタイの召命」である。その部分を拡大するなどして、理解を深めようとするのだ。絵画は確かに、その一部を大きく見ることによって、初めて見えてくるものもあるからである。その他、マタイを別の角度から描いたものや、ペテロやパウロ、洗礼者ヨハネ、蘇ったラザロ、そして聖母など、聖書にまつわるカラヴァッジョの作品が掲載されている。要するにカラヴァッジョはどのような作風なのか、ということもこれで伝わることだろう。
また、文章に於いても、これらの作品にまつわる聖書記事を丁寧に扱ってゆくのであるが、その終わりの章「死と召命」というところは、とくに感動的であった。ペテロの否認が、聖マタイの召命と画として関連があることを含め、美術鑑賞からしても味わい深い者があるのだが、それにも増して、聖書の理解と説明が長けているのだ。ペテロの場合には「否認」が転じて「召命」に結びつくことなど、聖書や信仰への洞察なしには、なかなか書けないことである。「日常生活の中で突然、信仰を試される瞬間を示している」との記述や、「殉教よりも回心という事件こそがキリスト教にとって決定的な出来事であった」との言葉は、キリスト者として読んでいて、ワクワクするものがある。
そうして「私たちへの召命」というタイトルの項目には、しびれてしまう。「神の招きは、私たちの日常のいたるところでいつ起こるかわかりません」と告げつつ、神の姿は見えないし、「日常生活のうちにその存在を感じること」はできない、と認めはします。けれども、「神がいるのかいないのかではなく、気づくか気づかぬかの問題」なのだと述べ、「つねに目覚めている必要がある」など、これは見事な説教ではなかろうか。
現代は、「神も奇蹟もまともには信じられなくなった」と言いつつも、《聖マタイの召命》で神の声を聞くチャンスが、この絵を観ている人にあるのだ、私たちだ、とメッセージを伝えている。こうして生きていること自体が「神の恵み」であり、「奇蹟」なのだ、とも言っている。
だが、こうした宗教的なメッセージで本書を終えることはできなかった。最後には、ちゃんとカラヴァッジョに戻ってくる。この作品には、光源が描かれない、という特殊な美術上のポイントを指摘するのである。カラヴァッジョは、作品の中に光源を描かない。それは、その作品の外、実際の空間にこそ光源があるからだ、と高らかに語る。「光源は見るものではなく、感じることができれば十分な存在だ」というのだ。そして、「神の存在もこれと似ていないでしょうか」と問いかける。「通常は顕在化していない」が、「その存在と方向性は、その気になってみれば感じられる」というのは、カラヴァッジョの作品から知る、素晴らしい信仰的見解である。もちろん、「カラヴァッジョにとっての光源とは神のようなもの」である、と、ここまで読んできた人はきっと気づくようなことも、はっきりと提示している。
宮下規久朗氏は、不確かな情報ソースから知るところではあるが、キリスト教徒であるらしい。そうだろうと、読んで思う。家族についてのある告白も本書には含まれているが、それはここでは明かさないことにする。だからこそなのだ、というような書き方がなされているところもあり、それはささやかではあるのだが、なんとも言えない気持ちになるのだった。
これは信仰書でもある。否、正に信仰書でもある、と言わせてもらってはいけないだろうか。

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