本

『キリスト教と戦争』

ホンとの本

『キリスト教と戦争』
石川明人
中公新書2360
\820+
2016.1.

 真っ向から取り組んだ本は、実はあまり見たことがない。確かに、近年この点について問題になってはいるが、えてして、キリスト教は一神教だから争いが好きで、戦争の原因は一神教にある、などという、およそ短絡的な誤認が日本人からしばしばなされる程度である。キリスト教内部からの問題意識により、取り上げられるようにもなってきたが、ある本は、どこか核心を避けたようにも見えた。
 そこへいくと、この本は違った。著者はキリスト者である。擁護する意識が、ないわけではないだろう。だが、歴史的事実については、情け容赦しない。事実は事実として、冷静に的確に告げる。キリスト教の歴史は、戦争を否定などしていなかった、と。
 ありがちな擁護については、最初のほうで取り上げている。また、幕開きはアーミッシュという極端な姿である。いわばキリスト者の理想のようにも見えながら、それがもたらす害悪の側面をもきちんと捉える。
 著者は、これまで戦争論を専門に、長く研究を重ねてきた。今回、新書という短い制約の中で、しかもいわば素人を相手に、これまでの論点をより整理して適切に配置しようと意図したのではないかと思われる。そのように、実に理路整然として、また準備された論点の整理がなされていると感じた。
 それはまた、感情で論じているのではない、ということでもある。つまり、私たちは今後、キリスト教と戦争との関係について考えるとき、この本をひとつの資料として考察し、また論議することができる、ということである。こうした書を提供してくれるのは、私はたいへんありがたいことだと思っている。著者の感情や思い込みばかりが並べ立てられている宗教論というのを幾多も見てきたものだから、それはただの扇情的な気分、売らんかなの本でしかないと呆れ続けてきた。しかし、つねにここから議論をスタートできるような素材を集めている新書となると、ほんとうに役に立つ。
 もちろん、著者も一定の主張を載せている。だが、それをきちんと述べるためには、これだけの分量では材料が足りないという気持ちも働いているのだろう。やや控え目にしてあるように見える。だからまた、読者にとっては、ありがたいのでもある。また、逆に著者に賛同したくなる。
 もちろん、一神教ゆえに戦争を起こす、などという低俗な議論には頁を割かない。聖書の叙述を踏まえ、それを信仰しているはずの教会がどのように解して、歴史を刻んできたのか、また神学者や思想家がどのようにそれをバックアップしてきたか、あるいは創造してきたのか、どこか冷徹に述べていく。だからまた、それは非常に耳の痛い部分もある。キリスト教世界の甘い自己弁護が通用しない事態になっていることが、厳しく指摘される。それは実に尤もなことなのだ。だが、それはキリスト教の悪口にはならない。憎しみや敵意からそれを述べているのではないからである。あくまでも、事実、あるいは史実。だからこそ、取り上げる意義がある。
 キリスト者は、これを基礎資料として、論じていく必要があると考える。それが手軽に人々に渡るだけのものとなっているのがうれしい。
 ただ、このように長い歴史の中で扱われる問題の場合、よくあることであるが、言葉の扱われ方について心得ておく必要があるものである。この場合、「戦争」という言葉である。もちろん「平和」でもいい。聖書が書かれた当初、あるいはローマ帝国の時代に「戦争」や「平和」という言葉によって人々がイメージしたもの、その言葉の内包や外延がとうであったかということと、現代人がその言葉で理解することとは、決して同じではないということだ。そして、いわば肉弾戦で戦うばかりの「戦争」が、ボタン一つで国が消滅するような「戦争」の時代になって、それをどう捉えるか、同一レベルで論じるわけにはゆかないということを知らなくてはならないのだ。クラウゼヴィッツは天才的にその戦争についての分析を重ねたわけだが、それを基礎としながらも、現代の国際情勢と科学的な情況は、すでにまた新たな地平を開き、そこで戦争とは何かを捉え直さなければならないようにも見える。キリスト教と戦争の問題は、過去のものとして刻まれてそれで終わりというわけにはゆかない。私たちが、いま、そしてこれからの、戦争と平和について、責任をもって受けとめ、築いていかなければならないのである。




Takapan
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