本

『キリスト教と日本人』

ホンとの本

『キリスト教と日本人』
石川明人
ちくま新書1424
\900+
2019.7.

 タイトルだけ知って予約し、いち早く手に入れた。「宣教史から信仰の本質を問う」というサブタイトルが付いている。本のカバーにある紹介を記すとこうなっている。「本書の目的は、これまでの日本人のキリスト教に対する眼差しや、来日した宣教師たちの言動を糸口にして、そもそも宗教とは何か、いったい人間とは何か、という大きな問いに向かうきっかけを提供することである。」
 キリスト者という立場から、愛すべきキリスト教、あるいはもっと多くの人が信仰しても当然かもしれないこの宗教が、どうして拡大しないのかという問いの中で、誠実に考え続けたひとつの結果が述べられている、というふうに私からは紹介しておきたい。
 この問題は、以前から多くのキリスト者について謎であり、検討された課題であった。しばしば、日本人の特質が挙げられた。元来の宗教的風土のせいにもされたし、日本の政治や習慣が邪魔している、というような声もあった。しかし本書の著者は、そうした精神的な原因で片付けようとはしない。さらに、日本人のせいだというふうにもっていこうとはしていないように見える。もちろん、これこれのせいだ、と決めつけることも控えるため、読者が何らかの派手な主張を期待するならばがっかりするかもしれない。
 しかし、問いかけは重要である。著者は、歴史の事実の中で、人間の社会的な判断に注目していく。かの紹介にあったように、宣教師時代の状況を細かく検討するのである。あの戦国時代、どうして大量の「キリシタン」が生まれたのか。また、そこに「信仰」があったのか。果たしてそのときの「信仰」とは何であるのか。いや、さらに言えば、「宗教」という言葉は何を意味するのか、こうしたところへと突き進んでいく。
 いや、急ぎすぎた。ゆっくり辿ろう。宣教師の時代の様子がほんとうに細かく扱われ、ひとつには、秀吉が禁教へと身を替え、酷い磔や迫害をするようになった背景には、宣教国側の原因も大いにあるのだ、という点を読者に認識してもらうことに著者は力を費やしている。これは、通例キリスト者には嫌われる見方であろう。キリシタンは迫害され、不遇な目に遭った。迫害する日本の政権は実に酷いことをしたのであり、後の拷問も含め、けしからんことだ、キリスト者はそうした迫害の歴史を忘れてはいけないし、いまなおその影響で教勢が伸びないのだ、というふうに、どこか被害者意識の塊であることがしばしばあるからだ。
 しかし著者は敢えて言う。宣教師たちの中には、立派な人も確かにいた。本書でもそうした例をちゃんと挙げている。しかしまた、政治的には拙いものがあった。この点は、著者が実は社会学的に「戦争論」を専門にしていることを知ると納得できるかもしれない。そう、人は何故戦争をするのか。戦争とは何か。こうした研究を背景にして、「キリスト教と戦争」というテーマを大きく考えている方なのである。その題の中公新書もすでに拝読した。とても新鮮な思いで味わわせて戴き、よい視点を与えてもらった。本書も、そうした視座をもたらし、私たちの自己本位な思いに気づかせてくれるものとなっているような気がする。
 ユニークな提言としては、「キリスト教」とか「教会」とかいう、その「教」という呼称は何に基づいているのかを問いかけ、むしろ日本語からすれば「道」ではないのか、というものがあった。私も「教会」という訳が原語とはズレがあると捉えていたので、この考えは面白いと思った。本書では触れられていなかったと思うが、使徒言行録の中で特に、「神の道」「救いの道」「この道」という言い方が目立ち、これは今風に理解すると間違いなく「キリスト教」と言い換えるべきものであることを、普段から私は意識している。それで、何も日本人特有の感覚ではないものだと思っている。キリスト自身、自分は「道」であると言い、私たちは通例これを喩えのように読むが、私は喩えではないと考えている。
 本書はこの後、「信仰」が、何でもひょいひょいと言われることをそのまま本当に信じ、その教義に固執することではないのではないか、という問いかけに移る。やや極端な例を用いたことになるかもしれないが、「信じなくてもいい」というひとつの結論に、やがて至ることになる。
 違和感を覚える方もいらっしゃるだろうと思うが、「信仰」というものが、与えられた教義に機械的に盲従するためのものであるわけではない、という著者の本筋については賛同したいと思う。つまりは、それがファリサイ派だったのではないか、と私なりに付け加えることにして。
 そして、「問う」ことの大切さを願いながら閉じる本書は、新書という、学術的な要素を排して一読で言いたいことが伝わるような形式になったものとして、多くのキリスト者に訴えるものをもっていると思われるし、また多くのキリスト者は、訴えられなければならないとも考える。300頁にわたる、読み応えのあるものだが、難解さはないと思う。本書の問いかけは誠実であると感じるので、読者としても私たちは、誠実に対峙したいと考えるものである。




Takapan
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