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本

『キリスト教学校が東日本大震災から学ぶこと』

ホンとの本

『キリスト教学校が東日本大震災から学ぶこと』
キリスト教学校教育懇談会編
ドン・ボスコ社
\315
2013.4.

 安い。文庫状だからかもしれないが、126頁ぎっしり文字が詰まっているものとしては格安である。行間が大きいことを考えても、要するに誰でも手に取るのによい機会が与えられていると言うことができる。
 妙な始まりだが、それだけ私は、この本が多くの人の目に触れてほしいと思うのだった。とくに、教育関係者、そしてキリスト教世界の方々。私はその両方を兼ねているので、なおさら、この報告書に巡り会えたことを感謝したい。
 実はこの懇談会の報告は、カトリックとプロテスタント両方の合同の組織で、毎年その講演会を公表しているという。それは、どちらかというと、キリスト教を掲げる学校たるものがどういうことを大切にしていくべきか、問題は何か、支え合い、また時に問題を指摘し合うという形で、論じてきたものだった。今回私は、震災を真正面から掲げたことによってこの本の存在を知ったのだ。
 震災の酷い風景を描いたわけではない。また、それを無視して抽象的に理想を述べたようなものでもない。なんと言ったらいいだろうか。私はこの本に、説明の仕様がないような感動をおぼえた。
 柏木哲夫さんのように、私がある程度存じ上げている方も寄せている。いわゆるグリーフケアとでも言うのだろうが、柏木さんはもちろんホスピスの先駆者の一人として、信仰の立場を保ちつつ、死をずっと見つめてきた方である。だが、震災にあたり、それをどう見つめるか、どう関わるか、それは非常にデリケートな問題であるはずだ。専門的に、その悲嘆はどのような順序で起こることが多いのかを紹介し、大いに参考になった。断片的に、悲しみの中にある人はこうなのだ、という情報は私たちによく伝わってくるが、それが系統的・段階的に示されると、納得しやすい。
 また、その文の中に「庶民というのは「小さな死」を体験してきた人たちだと思います」というものがあり、ずしんときた。挫折や失敗、思うようにならない経験をしてきた人は、大きな悲しみの中でも耐えていく力をいくらかでも育てられているというのである。
 それから、どういう声をかけるとよいのか、悪いのか、そんな指摘も役立ちそうである。言われてみると、なるほどと思えるのだが、つい、自分は善意からなのだ、と自画自賛しつつやってしまいそうなことが多い。「寄り添う」というのが近年キーワードになっているが、それが実際どういうことなのか、教えられた思いがした。そして、結局最終的に寄り添うことを完遂できるのは、イエス・キリストしかいないのだ、というところが、まさにキリスト者の信仰であり、使命でもあると痛感した。
 これに続いて、カトリックのシスターとしての高木慶子さんが、「神はどこにおられるのか」という、真摯な問いに真摯に答える文章を載せている。カトリックの考えの懐の広さというものを感じ、なおかつ、信仰の基盤の揺るがなさというものがどんなものなのか、まざまざと見せて戴いたように思った。プロテスタントの教会の話しか聞いたことがないような方がいらしたら、ぜひ味わって戴ければと願う。共に祈り、共に支えていく、その大切さが、自分を低くすることによって初めて行われていくものだということが、実感できるのではないだろうか。少なくとも、私はそうだと言える。
 その後、教育という観点が強いレポートがあるが、これもグッとくる。そして「ボランティア」という語が「サービス・ラーニング」という言葉により説明されていくことになるのだが、生徒たちが実際に立ち会った具体的な事例の紹介は、涙なしには読めなかった。さらに、「犠牲」についての立ち入った心理的解明は、胸が痛くなった。「犠牲者」と誰かを呼ぶことで、私たちは勝手にその死を美化してしまっているのである。自分の中で説明をして解決をし、自分を正当化している儀式のようになってしまうのである。「犠牲」とは「いけにえ」なのだから。ここを教育しなければならない、というキリスト教教育への眼差しは、私を目覚めさせるような力があった。
 これだけの薄い本に、大きな力がある。私はそれを信じて止まない。もっともっとこの光を世に輝かせることはできないだろうか。ささやかながら、このコラムで、その願いを叶える一歩を歩みたい。




Takapan
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