本

『聖書講義1 イエス伝』

ホンとの本

『聖書講義1 イエス伝』
矢内原忠雄
岩波書店
\+2500(二分冊)
1977.12.

 古書店にこの講義集がずらりと並んでいた。無造作に置かれていたし、鉛筆の線引きがなされているものもあった。そのせいか、値は週刊誌程度になっていた。それでも数冊続くと千円単位になっていくが、何度かに分けて購入した。全部というわけにはゆかないし、たぶん読めないと思えるが、福音書と教義書簡なら入手しても損はないだろうと思ったので、数冊手に入れた。
 牧師という立場ではないが、聖書研究についてはそれに近い、あるいはそれ以上のアプローチをして、私費で研究誌を発行し続けた。その見解は、神学者とはまた違うアプローチであるかもしれないが、たくさん見聞し、また自分で精読した経験に基づくかのようで、聖書を救いの書として受け止める気持ちそのままに、解説していくというような感じだ。その気持ちは私にもよく分かる。私が自分でしてきたものと、姿勢として重なるのである。その立場や文章の綴り方など、まるで私が書いたのではないかと錯覚することがありそうな雰囲気なのである。
 誰それの神学者の考えはこうだああだと引用するようなことはない。やはり自分の黙想のようなものであるし、そのためには一定の根拠があること、そしていわゆる定説というものをよく捉えていて、信仰生活に役立つ聖書の詳しい読み方としては十分である。学説を論ずる場面ではないということだ。そして、聖書からいのちを受けようと考えるならば、たぶんこれで十分なのである。
 大学で経済学を研究するとともに、無教会の立場、内村鑑三の弟子として、独自に聖書講座を開いたり読み物を発刊したりするという活動をした著者である。豊富な注釈が、巻末ではなくその場その場に付けられているのは、読者にとりたいへんありがたいと私は思う。そして、本文の通観的な叙述とは別に、この注釈に、なかなか味わいがあると見た。ギリシア語を指摘してその意味を明らかにしたり、解釈に他の説があると指摘したりもする。また、これは本文にも見られるものだが、そこはやはり無教会派、教会というもののあり方や、洗礼などの儀式については、明確に批判の色が強い。聖書を基準にするとともに、現実の教会の姿について手厳しい指摘がふんだんにある。解釈において諸説ある場合でも、教会制度について疑念を発する立場ではっきりと述べている点は、さすがに目立つ。また、そうした問題にさしかかると、筆が冴え、長く論じられる場合もある。
 それを読者がどう受け取るか、というところであろう。実際に教会生活をしている私のような者でも、本書の考えを受け容れられる点、また認めたい部分も確かにある。それと同時に、それでもなお、教会共同体について行き過ぎた誤解が先走っているのではないか、と思われるような場合もある。どちらにしても、極端な立場で、違う考え方を糾弾するようなことはできないものである。現実の組織制度的教会の問題もよく分かる。だが、一定の儀式がキリスト教を二千年にわたり保ち続けてきたのも事実である。そこに分裂の根があったのも確かだが、それでもなお、同じものにおいてつながること、またその儀式がキリストのいのちを伝え、育み、広めていることは否めない。
 いずれにしても、聖書そのものと向き合い、学ぶというために、本書のシリーズは頼もしい。この著者に説得されるというのではなしに、著者が垣間見た聖書の深淵を、共に覗かせて戴きたいと思うし、そのように読むことにより、私たち読者一人ひとりが、また神の息吹に触れることができると思うのである。




Takapan
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