本

『聖書の植物に思う』

ホンとの本

『聖書の植物に思う』
奥山順子
デザインマルコ
\1500+
2011.2.

 感動している。こんなにいい本があるものか、と。
 カリグラフィをなさる方だ。絵も美しい。下北沢教会の教会員だと紹介されている。しかし、インターネットでも探せない。きわめて地味なあり方をしている方だと分かる。  本は絵本のような恰好であり、形は正方形。ここに、ご自分のカリグラフィ作品が基本的に左頁、同時に聖書の引用が少しあり、右の頁に、それにまつわるエッセイが書かれている。長すぎることもなく、短すぎることもない。その文章が、これまたたいへん美しく、読みやすい。絵や文字だけでなく、文章もたいへんうまいと断言できる。
 聖書の中には、様々な植物が登場する。聖書の植物というだけの条件で、分厚い植物事典も多々作られているほどだ。ただ、古代の言葉で言われている草花を、現行聖書はそれなりに訳してはいるのだが、果たして今私たちが見るその名前の植物と一致するのかどうか、これがなかなか判断に難しいものである。直接的な標本などがない以上、推測するという形でしか私たちのもとには届かない。たとえばこの本の中でも説明されているが、「ユリ」という名前で、私たちの思うユリであるのかどうか、保証がないのだ。「野のユリ」という雅歌のフレーズは、著者はアネモネと解して絵を描いているが、ほかにポピーだという説もある、などときちんと説明が加えられている。少なくとも、私たちの頭にある「ユリ」の範疇にはない花である。ヒソプも、聖書の中の記事と私たちの知るヒソプとの関係が難しいのではないかという指摘がある。それでもなお、それを前提として、聖書に描かれたシーンを想像していく、といった受け止め方を著者はしていた。
 五十音順に並んだ草花、あるいは樹木が32。最後まで飽きさせず、読者の目を楽しませ、そしてハッとさせる。私とてクリスチャンを長くやっていたら、それなりに知識も増すわけで、植物についてもそこそこ知るところは多いと思っていたのだが、私と同じような立場であり植物については素人であった著者の教えてくれる植物の知識は、知らないことばかりで、たくさんのことを教えてもらったことである。つまり、クリスチャンとして著者は、実のところ植物学などを専門にしているわけではないゆえに、信仰の思いでこれら植物についていろいろ調べているのだ。現物の花を相手にし、聖書の中でどのように使われて出てきていたかを拾い上げるところまでは、一定の労苦や費用が伴えば、可能であるかもしれない。いや、それでも大変な作業であるということも実は分かるのだが、確かに、カリグラフィの美しい描写とそれらが重なっていても、作品化することは、なんとかできる世界だと理解できるものである。けれども、私が驚いたのは、その信仰である。聖書を適切に理解しており、自分の罪という問題を真正面からきちんと見つめている。また、他人への配慮や愛という視点がふんだんにあるからこその文章であることも、私にはよく分かる。なんと感性の研ぎ澄まされた、その上での強い信仰であることだろう。謙遜も含め、あらゆる背後に、岩なるキリストの愛が溢れてくることをこの本の最初から最後まで、びりびりと感じさせてくれるのである。涙が出そうなくらいであった。言いようのない感動が私を包み続けた。
 だが、カリグラフィ関係のサイトでようやく検索できたので開いて見ると、この本は自主出版であるらしい。せっかくここでお薦めしても、では、と見ることのできるチャンスは皆さまにはないかもしれない。また、発行が2011年2月であるが、翌月に起こった東日本大震災のために、売上げをすべて送っているという記述もあった。頭が下がる。口先だけではない、真実の愛を覚える。この方の信仰の言葉は、私の信仰の核心と一致すると言ってよいが、実際に行っていることについては、私などは遠く及ばないことであった。
 なんと魅力的な本だろう。教会に置いてなかったら、私は出会うことがなかった。この本に、出会えてよかった。




Takapan
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