本

『聖書 信仰生活の手引き』

ホンとの本

『聖書 信仰生活の手引き』
塩谷直也
日本キリスト教団出版局
\1300+
2012.7.

 シリーズの中の一冊。信仰生活のためとはいえ、タイトルが「聖書」である。こういう解説はよくあるなと思い込んでいた。監修者に名の知れた神学者を掲げながらも、内容は編集部が興味本位で集めたかもしれないような図版を並べて、通り一遍の解説をした、聖書入門。ただ、本書の著者は、いわばちゃんとした人のはずなので、単に買って読む気がしなかったというだけのことだった。
 ところがこの著者、塩谷直也さんの文章にあるところで触れ、心を射抜かれたために、この本もきっと期待できるだろうと思い、取り寄せた。すると、これは聖書についてのありがちな説明とはまるで違う、ものすごく濃密なメッセージ、さらに言えば鋭くぐいぐいと迫り来るメッセージであるということがよく分かった。
 それは、著者の感性というものによるのかもしれない。そう呼んで失礼であれば、霊性と言い換えてもいい。一つひとつの言葉が心に割入ってくるのを感じるし、実のところ、立つスタンスが違うと思うのだ。並の解説者とは違う。別のところに立っているから、同じ対象でも別の角度から違う見え方をしている、というような喩えで分かってもらえるだろうか。そしてそのような角度は、私も近いところから眺めている訳で、だからこの著者の書くものに心がびんびん鳴り響くのではないかと考えている。
 著者は牧師を経て、大学の教員となっている。つまり、まさに聖書を霊的に扱う仕事を踏まえ、教育という観点で、若い人たちの反応も十分知りつつ、聴いてもらえるような福音の語り方をするのだ。しかも、自身若いころに挫折を味わい、またその後も失敗を覚えるような経験をたくさんしている。少なくともそれを明らかにしている。この痛みも含めて、ようやく傷んだ人の心に響く言葉を語ることができるのだろうということがよく分かる。
 抽象的な話よりはむしろ、具体的な体験を持ち出すことによって、事柄の本質を具体的な場面で適用しつつ強く理解する道を呈することになる。それも確かに自分で体験した話なので、描写も主張も、説得力がある。牧師にしろ教師にしろ、分かりやすく伝えるというために用いるであろうような出来事が、実に的確に問題点を語ってくれることか、驚くものがある。本当に読みやすいのだ。
 それでいて、ズバリと斬り込む時には斬り込む。聖書を知識として読むのではないよ、それは個人的に神と向き合う態度の中で読むというものであるべきなんだ。こうした聖書の読み方のエッセンスも、きちんと言葉にして出してくる。言わなくても分かるだろう、という態度は、教育の世界にはない。教育を現場で体験してきた人は、確実に伝わるようなものの言い方を一発で決めないといけないと考えている。様々な言い換え、関心をもつような話の深まり、もちろんツカミも必要だ。それらがこの一冊に余すところなく実現している。
 章立ては、触れる・読む・出会う・生きる・語る、とあり、それだけでは何が言いたいのか実感が伝わってこないものがある。しかしそこは話す腕である。びっくりするほどにこれらの章の指摘が適切で、どんどん引きこまれていく。特に私が重視している「出会う」ということも、決して抽象的な、分かる人にだけ分かるというような言い回しではなく、読者を神の前に連れて行くような巧みで、しかも愛に満ちた話が続いていく。さすがだ。
 こんな文章を書きたい。たぶん考えていることは同じことだ。だからこそ私は惹かれるのだと思う。しかし、私はこんなふうに素晴らしい表現はできない。思いつかない。言われれば、そうだそうだと叫ぶのに、自分の中からは出て来ない。軽く嫉妬を覚えるほどである。
 最後のほうだが、文面としては極端なことのようでありながら、強く魅力を覚えるものについて触れ、説教という現場がどうあるべきかが書かれているその章で、こんなことが書いてある。
 ――詩人とは、体験を通し、「自分の言葉」を獲得している人のことを言うのでしょう。
 それなら著者は間違いなく詩人である。それから説教は確かにこうありたいと思う。
 ――聖書を読んだ者は、聖書を語る者へと変えられていきます。しかしその語る者は、聖書の言葉を単にコピーして語るのではありません。まずは聖書を生きること、聖書に挫折し、傷つくこと、そして再び立ち上がること、すなわちその言葉を生活の中で吟味・検証する者のみが、語る言葉を与えられるのです。
 説教とはまさにそうあるべきだし、そのように語れた時に、聖霊が強く働くことも想像できる。
 確かに聖書の全巻の解説も初めの方にある。しかしそういうのは本書では珍しい。最低限のものが通り一遍並べられているが、それはほんの必要な前置きに過ぎない。キリスト教について殆ど知識がない人がこの本を読んでも、普通なかなか解せないところが多いだろうと思われる。しかし、信仰生活をするという道を前にしている人にとっては、あらゆる部分が、説教、つまりメッセージになっていると思う。また、聖書と向き合う私たちの信仰の核心が明らかにされていると思う。
 そこで今度は最初のほうの一つの文を紹介して、聖書のエッセンスを明らかにしてみようかと思う。この前のところから読まないと実感が湧かないだろうと思うが、それでもこの言葉で私は締めたい。
 ――聖書を読むとは、このような数千年続く聖書解釈の営みに、私自身が参加していくことでもあります。




Takapan
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