本

『ボヴァリー夫人』

ホンとの本

『ボヴァリー夫人』
ギュスターヴ・フローベール
伊吹武彦訳
河出世界文学全集11
河出書房新社
1989.10.

 分厚い世界文学全集を図書館で借りて読んだ。19世紀フランス文学の名作だと聞いたのだ。
 ナサニエル・ホーソーンの『緋文字』が1856年とこれより6年早い出版である。こちらはいわゆる不貞について、アメリカの街中が非難を浴びせるという姿が描かれているが、この『ボヴァリー夫人』はそのような厳しさは感じられない。しかし雑誌の連載が終わったとたんに風紀の問題で訴えられている。しかしそれが無罪判決を勝ち取ったこともあり、むしろ宣伝のようになったのか、爆発的に売れたのだという。
 フローベール自身、医者の父をもつそうで、物語の中心にいるシャルル・ボーヴォワールは医師である。一度やたら年上の女性と結婚するが、まあそれは失敗だったように描かれ、彼女は死ぬ。その後、親しくしていた農家の娘エンマと結婚するに至る。このエンマが、ボヴァリー夫人である。
 このエンマ、修道院の経験もあるが、結婚生活には夢をもっていた。それが、どうも違うということでもやもやとしていたのが、伯爵家の舞踏会に出て、後戻りできない刺激を受けることとなる。
 精神的に不安定さを見せたエンマを気遣い、シャルルは村での生活を始める。ここからはネタバレになっていくため詳述を控えるが、二人の男に次々と惹かれ、エンマはのめりこんでいくのである。そして、金の問題が絡み、破滅へと追い込まれていく。
 これは、フローベールが親友から、書いてみるようにと提案された、実際のある事件をモチーフとしているという。もちろんその事件そのものを追ったわけではないが、おおまかな構造はその事件を受け止めているように思われる。
 事実上のデビュー作であるというから驚きだが、現実味のある事柄でもあったわけで、ある意味で描きやすかったかもしれない。しかし女性エンマの心理が物語の殆どを占めるようであるため、男性の作者がよくぞこれだけ斬り込んだものだと思う。あるいは女性の目から見るとまた違って、所詮男だよね、というふうに見られるかもしれないが、非常に精神的に不安定で、理想と現実の相違に悩む様子に、読んでいるだけでどんどん惹きこまれていく。こうした心理は、「ボヴァリスム」とも呼ばれ、時代の言葉になったそうである。
 私の読んだ訳は、おそらく日本で、発禁処分を受けずに出版された戦後最初のものであろうが、後に改訳がなされているのでそちらだろうか。全体的に訳語や表現が少し古いような印象も受けるけれども、なかなか品格のある描き方ではないかと思った。比較対照したわけではないので、なんとも言えないのだろうが。
 フランスでも物議を醸したことには先に触れたが、もちろんここに性的な描写が露骨にあるわけではない。服を脱いだというあたりが最高かもしれないし、「キッス」という訳語がなんとも素敵であるのだが、これで世間がいきり立ったり、訴えられたりしたのだから、1928年のイギリスにおける『チャタレイ夫人の恋人』などとは比べものにならないくらい穏やかである。だが、その心がどんなに虚ろで、先行きを考えず目の前のものになだれこんでいくのか、そういう心理的なみだらさとでもいうものが、現代でも珍しいほどのものであるかもしれない。しかもエンマは、それなりにそれが愛だと思い込んでいるのであるし、相手にもそうした愛を求めるのである。
 年をとった形で若い妻を抱えた医師シャルルは、こうした妻のありさまについては、最後まで気づいていないように見える。全く気配がないわけではないのであろうが、まさかと思っているのである。そのうえ、最後には相手の男を許すような思いが表されていて、しかも妻エンマをある意味で真底愛していと様子が窺えるので、ちょっと切なくさえ思えてくる。
 こいつはなんなんだと思えるようなキャラクターもあるし、しかも登場人物が溢れて収集がつかなくなることもなく、長い物語のわりには非常に読みやすい部類に入るだろう。その意味でドストエフスキーのほうが、これは誰だと困ってしまうものであることが多いのだが、この作品は、時間さえあれば一気に読み進むことが可能だろう。
 フランスの文学には、時代により厳しさも様々だが、カトリック文化の中で、一方で敬虔さが溢れている場合と、神なしで人間が思案を突き進めるものとがあり、キリスト教文化に包み込まれている中でも、人間というものに注目した読み方ができるのが面白い。今回の中でも、聖書はイエズス会が改竄したものだというのは周知の事実だ、などと述べている言葉が終わりのほうにある。なにげないが、こんなところに、祈りや聖書のことをどう捉えているかを感じることができて、私にとっては非常に興味深いものである。




Takapan
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