本

『聖書に聞く』

ホンとの本

『聖書に聞く』
雨宮慧
オリエンス宗教研究所
\1800+
2009.8.

 特に旧約聖書の研究とそこからのメッセージにおいては定評のある神父である。素人にも分かりやすい解説と、そこから聖書が何を言おうとしているかを告げる営みは、ただの思いつきではない、深い原語からの洞察を伴う、実りの多い探究となっているように思える。
 ヘブル語の意味を明らかにするばかりではなく、本書では新約聖書の解釈も多いので、ギリシア語の指摘から読み解くようにもなっている。学びのためにも相応しいが、何よりもそのタイトルの如く、私たちは聖書に神の声を聞くことが求められている。
 しかし本書を、私は出版当時、見落としていた。『旧約聖書のこころ』を知ったのはその発行からかなり後であったが、その本のことで雨宮慧という人が私の中で大きな存在となっていたから、2009年にも、新刊の目録の中にその名を見落とすはずはなかったのだ。だがノーマークであった。2018年に古書を扱う店の棚で偶然見かけたという次第である。開いてぱらぱらと見て、鳥肌が立った。古書としては他の本より割高に見えたが、迷わず買うことにした。そして、それは正解だった。
 カトリックの雑誌に連載されていたものであるという。専門の論文ではなく、信徒向けである。しかし、手を抜いていない。原語からの意味を、誤解を招くかもしれないが、霊的に読み解き、神の声の意図を明らかにしようと模索する。それはもちろん著者の心に語りかけたものであるが、本を通じて十分読者の心へも呼びかけが及ぶものだと言える。実際私がそうであった。
 狙いが最初に明らかにしてある。聖書を、聖書用語を駆使して信徒の論理で高いところから投げ下ろすような姿勢では、この日本という風土にキリスト教が受け容れられる形でもたらされはしないというのだ。いわば福音の土着化という問題がここにある。それをなんとか可能にするものであってほしい、そういう願いによって、本書は執筆された原稿を集めたものである。日本に生まれ育った者には、その文化のフィルターを通してキリスト教が見えている。時に真理を見出したと小躍りし、ふれてまわるものであるが、それも自分に見えたごく一部の光から分かる景色に過ぎない。自分だけに見える色である可能性が大なのだが、それをひたすら広めようとし、しばしば押しつけようとするならば、およそ福音が伝わるということに反する行為になりかねない。心に自然に染みいるように伝えるというのは、カトリックにとり得意なやり方であるとも言えようが、そのことをテーマにしながらも、ちゃんとヘブル語やギリシア語から説くのだが、非常にレベルの高い営みをここでもたらしているということが言えるであろうと思われる。それをやるだけの教養と知識と祈りがここに示されているかと思うと、十分な敬意を伴って読む姿勢をもたなければなるまい。
 論理構造を伴って集められたものだとは言えない。まるで雑誌のように、好きなところから読めばよいだろうと思う。しかも堅苦しくない。本当に雑誌を開いているくらいの気持ちでよいのではないかと思う。それでいて、内容は高度なものを伴っており、また思わず唸るような原語の指摘と、そこから醸し出される福音のメッセージが、読者の心と全身を包むことだろう。聖書の本分の構造を、傍線を引くことによって誰にでも納得させるその手法は、教え上手というのもあるだろうが、読み手としては、分からざるをえない説得力をもつ。挟み込みの指摘は、このように、実際に目の前に文を並べて線を引くというのが最良であろう。よくご存じない方にも、ここにある説明を聞けば十分楽しめるから、聖書が好きだという方なら、どうぞ参加して戴きたい。難しさというものはないはずである。
 無駄のない260頁余りで、その厚さ以上の内容をもたらしてくれる。いや、単に知識や内容というだけでなく、読む者を感動させ、それまで見えていなかった大きな世界を見せてくれるとでも言ったほうがよいかもしれない。それは実際に読んだ者だけが実感できる喜びである。掘り出し物などという言い方をするのは失礼かもしれないが、本書のように有意義で学的にも霊的にもひとを活気づかせるだけの力をもったものが、あまり知られずに埋もれているというのはもったいない。もっと宣伝し、紹介されて然るべきではないかと思う。




Takapan
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