本

『聖書を解釈するということ』

ホンとの本

『聖書を解釈するということ』
南野浩則
いのちのことば社
\1700+
2020.6.

 いのちのことば社という出版社なので、そうリベラルな内容の本は出ないだろうと予想されたのだが、聖書解釈については、昔のイメージとは少し変わってきたのかもしれない。今回の本は、やはり福音的と言えば福音的なのであるが、聖書の理解については非常に現代的であった。語弊があるかもしれないが、「冷静な」聖書の読み方が分析されていると呼んでよいように見受けられた。
 言葉遣いが、その道に慣れていない人には難しく感じられるだろうと思われる。確かに一般読者をターゲットに和らげられているはずなのだが、当たり前に理解されるものとしてさらりと出される中心概念「テクスト」でさえ、深めればずいぶんと深いものになるわけである。同様に「意味」という語も、実は奥が深い。「記号」になると、シニフィアンとシニフェが、もう第一章から登場するし、続いてラングとパロールを持ち出してきて説明する。解釈の議論の現場では非常に基礎的な概念で、知っている者には説明する必要がないものの、ここでは一般読者を対象としているだに、これらの説明をしていくが、もうこれらの用語で違和感を覚える読者も少なからずいるのではないかと懸念する。
 言いたいことは、実は難しい解釈学の理論や学説に関わるものではない。書かれた聖書がここにあるが、それを読む私たちの受け取り方と、それを書いた筆記者がこめた意味とが、必ずしも一致するものではないという、当たり前の点に触れつつ、では事象そのものを筆記者は本当にその文字にて表すことができると確信しているのかどうか、という辺りもきちんと問いかけつつ、100頁近くに至るまで、解釈にまつわる哲学的な議論を紹介するかのように、説明を繰り返すのである。
 そこからようやく聖書の場合はどうなるか、という問題が引き受けられた後、原理主義に陥らないように、できるだけ公平な角度から問題を見定めようとしていく。
 このように、少し哲学的な衒いのように見えかねないところもあるし、哲学的な思考訓練を受けた人でなければ、手こずることがままあるかもしれないけれども、聖書というテクストを読むという場面に、文字を介していろいろな解釈があることはどうしてだろう、というような問題意識をもつ人は、挑戦してよいのではないかと思う。
 つまり、まず何か書こうとする事柄が、書く人に浮かぶ。それを書く人は言葉にしようと努める。どのように書けば自分に与えられた考えを表すことができるか、悩みつつ綴るだろう。しかし自分に与えられたものを完全に文字として記すことはできそうにない。そうやって記された文書がここにある。どうかすると、それも後世にはいろいろ書き換えや修正がなされて遺ることになる。しかも、修正が修正でなく、修誤となっていくこともあるし、聖書となると世界に何百種類というバージョンがばらまかれていることになる。さらに、その文書を私たち人間が、読む。どのような意味に読み取るか、それも人さまざまでありうる。こうなると、最初に書き手に与えられた事柄が、時と場所を経た私たちが思い浮かべた事柄と、どこまでどのように一致しているのか、甚だ怪しいことになる。伝言ゲームの最も苛酷な部類のものとなるだろう。
 いま私が私なりに説明したことについて、そうだよね、とまず思えた人は、大丈夫、本書を読むことに困難はない。しかし、私の言おうとしたことがまるで意味不明だ、という方には、本書は読みづらいのではないか、というふうに思う。ひとつの試金石にしてくださったら有り難い。




Takapan
ホンとの本にもどります たかぱんワイドのトップページにもどります