『聖書解釈の歴史』
木田献一・高橋敬基
日本基督教団出版局
\2900+
1999.9.
この時代に、280頁でこの価格とあっては、ずいぶんと高価に見えたことだろう。これは一定の見解を主張する内容というよりも、むしろ、聖書をどのように捉えるかという問題についての神学についての、「資料集」と見たほうが適切であるような気がする。一読してなるほどと思うものだというよりも、事ある毎に調べて、これはこういう位置づけなのだ、と学び直すことができる資料なのではないだろうか。
副題に「宗教改革から現代まで」という絞り方がしてあるのは、かつてあった『聖書と教会』誌に1987年から2年間連載されていた記事を、修正などの上まとめたものであるため、その連載時の方針によるものであろう。しかし、おもにこの200年間での聖書学の歴史を振り返ることが軸となっているため、宗教改革そのものに重きを置くということを期待しないほうがよいかもしれない。
その辺り、本書の目的や意図については、「まえがき」にしっかり書かれているので、ここを丁寧に見ておいた方がよい。聖書をただの信仰の書として読むにあたらず、自由に、新しく神の言葉としての意味を読み取るために、人間は動き始めた。それは、聖書を否定しようという動機ではなかった。聖書に挑む神学者たちは、自分の置かれた立場と空気に染まりつつ、自分に与えられた使命を果たすべく、自分から見える景色を、正直に告白するような思いで、聖書に対する自らの信仰を、一定の論理でつなぎ合わせていこうとしたかのようである。
ただ、そこには教会という場があった。教会の中で読まれる聖書の読まれ方は、ある意味で旧態依然とした解釈であった。信徒の信仰を守らねばならない。この神学者が牧師として説教をすることもあったわけだろうが、そのときに、さて、何を話せばよいのだろう。自分の中では、聖書はこれこれの文献である、という学問的信念がある。しかし、説教壇は、学界の発表の場ではない。このとき、学者としての魂と、牧師としての魂との間に、葛藤があるやもしれない。どちらに対しても嘘をつくわけにはゆかない、ということで、自説を交えつつ、聖書から語るしかないのだろう。それは苦しいことであるのではないかと想像する。しかし、いつしか自説が高い位置にくるようになり、そこから聖書を判定するような勢いで語ることが常態となると、さて、教会はどうなるのだろう。
その先生を慕う教会員は、次第に信仰のあり方が変わるであろう。先生が何をどう語ろうと、自分自身が聖書の神と結びつき、強い関係の中にあるのであれば、むしろ説教を批判しつつ、その中の参考になる部分だけを学びとして役立てつつも、信仰の面では背を向けてもよいかもしれない。問題は、そのようにして説教を聴くということについて、その場が神の「礼拝」として成り立っているかどうか、の吟味である。そこに矛盾を覚えたり、苦悩を感じたりするのであれば、信徒の側としても、引っかかりができてしまうかもしれない。そうなると、そのような教会の場にいることが望ましいものではなくなってしまうであろう。
さて、こんなことを話しても本書の紹介には全くなっていないので、いくらかでもお薦めしておこうと思う。
章立てだけでも添えようか。「宗教改革の時代」に始まるが、分量は多くない。「政党主義から聖書学の自立まで」の章では、合理主義的な捉え方が勢力を増し、啓蒙主義からドイツ観念論、実証主義へと進む時代を辿る。次は「旧約学の展開と聖書解釈」となり、旧約聖書に関して現代にまで突き進むことになる。このとき、「付論」として「日本に於ける旧約研究史の一断面」と称して、三つの時代に区分し、渡辺善太や浅野順一を軸に、西欧神学を、受け止めてゆく過程が辿られている。
最後の章は「新約学の展開と聖書解釈」として、動揺に現代に至るまでの潮流を見てゆく。やはりバルトやブルトマンについては頁をやや多く費やしているが、文学批評についての言及は、読者に印象を残すのではないかという気がする。
終わりにおいては、先に私が触れておいた、教会がこれからどうするのか、という視点を問いかけている。その中で、「教会や教会学校の礼拝説教が部外者たる現代人に、悲しいかなほとんどまったく届かないという問題に直面している」という点が、やはり重たい。やはり、教会がなくては、神学どころではない、という実情が確かにあるのだ。もしかすると、それを忘れて、神学ゲームに走っていたのではないか、神学者も信徒も、問い直すべきではないだろうか。
本書は、豊富な「注」がある。これは連載時には割愛されていたものであるというから、有り難いものである。また、「参考文献」も、いまとなっては決して新しいものではないが、大いに参考になる。ただ、一つ残念なことがある。「索引」がないのだ。本書は、資料としての役割を果たす優れたものだと思うが、資料として用いるためには、索引が必須なのだ。わずか数頁でも構わない。索引が欲しかった。

た
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