本

『聖書から説教へ』

ホンとの本

『聖書から説教へ』
日本基督教団出版局編
日本基督教団出版局
\1942+
1992.10.

 古書店で見つけた。ちょっとした掘り出し物だった。なかなかこうしたものがないように感じるからだ。一方的に、語る説教者のためのものだ。説教を書く、語る人でないと読まないようなものだ。日本でこうしたものが売れることは見込めない。それで、珍しいと感じたのだ。
 載せられているのは、6人の猛者。うち5人が海外留学をしたり、海外で学位を取得したりしている。一流大学の教授であるなど、皆肩書きに不自由しない。立派な方々である。ここにあるのは、註釈もできるだけ抑えたように見えるが、すべてちゃんとした論文である。しかし、キリスト教徒であれば誰でも読む資格があり、また読めるだろうと思う。問題は、説教を語ることの意味やその背景に、どれだけ個人的にアプローチできるか、である。
 説教はどうあるべきか。おおまかに見ると、聖書研究というものがひとつにはある。それは20世紀に大いに揺れた。信仰の土台とされたはずの聖書は、その前の世紀からではあるが、文献となり、研究対象となった。聖書に書かれてあることが史実とは限らない。それはどのようにしてか。そんなことが調査された。よって、そうした聖書研究を無視して語れば、いわば狂信的なメッセージとなる可能性がある。それは古代からあった。語る者の思い込みで、聖書を利用して自分の思想を語るのだ。
 だが、しょせん説教者もひとりの人間に過ぎない。果たして聖書研究の成果を語るのが礼拝説教というものであるかというと、やはりそんなことはない。会衆に語りかけ、信仰を育むものであるべきであろう。ただその時に、聖書研究の成果を無視すると、現代人はついていけない面がある。このように、聖書を説明する一面と、それを解釈する一面と、そのバランスというものが難しいことは、確かである。
 教会という場での礼拝において、開かれる聖書箇所が、何かしらプログラムに従った流れであることは、語る者の恣意的な選択に任せず、バランスのとれた学びとなるだろう。それは語る者が潜在的にでも避けがちなところにも立ち向かうという面もあるだろう。しかし、そこに命のない言葉が浮遊するような結果となるとしたら、という懸念もある。語る者の情熱のこもったものが生まれるのかどうか、そんな心配である。
 日本基督教団内部でいろいろともめ事もあった。聖書神学の変化における対立もあった。社会的に教会がどう立ち上がるか、また戦争責任という問題についてもどう態度を示すか、いろいろな背景があった。本書もそうしたところからなんとかしようという気概の中で生まれた本であるかもしれない。だが、テーマはあくまでも礼拝の説教である。それを理論的に、また実践も疎かにしないように考え抜いたものがあるのはさすがである。必ずしも背景社会に制限されない、普遍的な議論がここにあるし、力のこもった考えが紹介されている。信徒が、語る者の苦労を知るというためにも悪くないし、そもそも聖書を語るというのはどういうことか、信仰の原理的な部分にも目を向けさせる上でも、非常に有意義な論文集であると思う。
 ただ、私はひとつ気になった。語る者、説教原稿を書く者については、これでよい。しかし、説教とはそういう営みなのだろうか。聞く者、会衆の存在は、本書では殆ど顧みられない。語る者は、用意した原稿を語って、それで説教となるのだろうか。私は違うと思う。会衆を見ながら、会衆の理解や関心、また霊的なものの流れなどを含めたものにより、語る言葉も内容も、実は変わってくる。原稿棒読みをして説教終わり、というわけにはゆかないのである。つまり、説教とは、語る者と聞く者とが神の前にひとつの霊的な時間空間を共有する場となるはずのものであって、会衆と一緒になって完成するのではないだろうか、と私は言いたいのである。
 書く側の立場と論理、それは大切だ。しかし、それがすべてではない。学校の授業というものが、教師の準備した授業準備のプランによりすべて成り立ち終わるということが考えられないように、説教というものも、会衆がいて礼拝という場の中でそれが語られて、伝えられ手、新しい命を注ぎ、そこから歩き始めることができるひとつの出来事となるのであるば、語る側だけの都合ですべてが満たされるわけではないのである。
 だから、本書のタイトルが「聖書から説教へ」となっているのは、実は正しいのだと思う。なんとか聖書から説教を形作るまでの過程を細かく検討しているからだ。しかし、その「説教」なるものは、さらに広く礼拝の充実や完成、あるいは信仰の歩みなどというように、次のステップへと開かれていくのでなければ、無意味になってしまうものでもあるだろう。本書がそうした続編へとつながっていたのであれば、それでよいし、それを知りたいと思う。しかしながら、万一本書で説教論が完成したというつもりで途絶えていたのであれば、いったい礼拝とは何か、説教とは何かということになってしまうだろう。
 教えられることは多い。そしてささやかな経験上、肯けることも多々あった。内容が良かっただけに、ここから先の礼拝説教の成立というところに、語る側がどんな現場をもたらすものなのか、そこを明らかにしてほしいと願う。叫んでほしいと望むものである。




Takapan
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