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『聖書の謎を解く』

ホンとの本

『聖書の謎を解く』
三田誠広
文藝春秋
\1500+
1997.10.

 キリスト教初心者、などというと変な感じがするが、関心をもってくれた人が、まず読んでみて分かりやすい本はないだろうか、という相談があった。そのときある本を薦めたが、私とて、近年たくさん現れるいわゆる入門書を一つひとつ見ているとは言えず、よく分からない世界ではあったので、ちょっと調べてみようと思った。お薦めするにせよしないにせよ、ある程度知っておかないとできないことだ。
 三田誠広さんという文学者は、かつて若い代表のようにも見えていたが、もうずいぶんとベテランの域に入っていると知った。小説の書き方については大学で教鞭も執っていて、そういうものの解説も、一読して分かりやすいものが多いと思ったので、その三田さんの書いている本書が目に止まったとき、こういうのも書いているんだ、と少し関心をもった。そういうわけで、取り寄せてみたのである。
 副題に「誰もがわかる福音書入門」と記されている。帯の文句は「聖書は史上最大のミステリーだ!」ときた。確かに、分かりやすさという点では期待できる。また、いわゆる信徒ではないところも、面白い。信徒であれば、福音派とリベラルとも違いはあっても、それぞれの持ち味でどのように書いてくるか、それは私には想像できる。だが、キリスト教世界の外からの目がどう聖書を見ているか、という点については無知に等しかった。というより、様々な立場から、いろいろな聖書観が見られるだろうから、きちんと書かれてあるものとして見てみたいと思ったのだ。
 よく勉強してある。これが第一印象である。並のクリスチャンよりはよほど様々なことを調べていてご存じである。そしてその説明も分かりやすいと言える。実は著者は、小説家として、聖書をちょっと題材にしたものを書いたら、大学から、聖書の講座を担当する講師の一人として呼ばれたというのである。こうなると、学問としての教え方というのもあるわけで、自分の感想だけを語ればよいというものではない。きっとずいぶんと本に当たり、調べたのであろうと思われる。その成果が、こうした形でまた現されたというふうにも考えられることだろう。
 だが、私は、これをキリスト教入門書としてはお薦めしない。それは、福音派の考えに基づいていないというような理由ではない。端的に嘘が多い、というような理由でもない。確かにこの方はよく勉強されている。だが、信仰があるわけではない。信仰がないから駄目だという意味でもない。聖書を自分の問題として向き合って読まない方にありがちなのだが、一定の学説というものを、もうそれだけしか解釈がないように思いがちであるという点なのだ。もう少し正確にいうと、おそらくこの執筆時に優勢だった、あるいは脚光を浴びていたかもしれないような聖書理解を、さもそれが唯一の真理であるかのように、断言して言ってしまっているという点である。
 殊更に実例は挙げない失礼を許して戴きたい。随所にあるのだ。こういう説がある、このように考える人もいる、というような言い方が極めて少なく、こうである、と言い切ってそのまま突き進むことが多いのだ。小説ならばそれでいい。小説の中でいちいち人物が、こういうのもあるああいうのもある、と呟きながら右往左往するのは間違いなく面白くない。しかし、聖書というものは、謎解きをする対象ではない。本書はもうその題名からしてその運命に陥っていたかのような観があるが、謎を解く文献として扱い、しかもその謎の解き方は多々あるのに、この意味である、と一つに決めつけてしまう態度は、残念ながら、聖書については適切ではない。人の数だけ読み方があるかもしれないような書物であるのだから、推理小説で明解に犯人の心理を説明するのとは訳が違うのである。
 その点は「あとがき」でも著者自ら、「謎解きの面白さを加味しながら」聖書を読み解いたのだと告白していることからもはっきりしている。もちろん、これが唯一の真理だ、などと言っているわけではない。それほどの自信もないというのが正直なところなのだろうかと思うが、「大胆すぎる仮説や、誤解を生じかねない暴論もあるかとは思いますが、」「一般の読者のための入門書だということで、お許しをいただきたいと思います。」と断り書きをすぐさま入れている。そしてキリスト教徒が読むと「びっくり仰天するような解釈や仮説が」いっぱいあるだろう、と、「弁解」している。これはいけない。入門書というものは、面白がらせて極端に偏った考えを提供する場ではないのだ。誰でもまずそこから入って無難なものを提供し、門に入ったあとはそれぞれがお好きなように道を選んで進めばよい、とするのが入門書の仕事なのであって、びっくり仰天させるのが目的ではないはずだ。つまり、一般の読者のために福音書入門を提供します、と言う触れ込みで、このようなことをされては迷惑なのである。そんなことはせずに、最初から、自分なりに独自に聖書の謎を解きます、と言えばよかったのである。そうすれば、ああこういうふうに読むのも面白いな、と読者は感じることだろう。だが、入門書です、と呈示しておいて、人に命をもたらし救いを与え続けてきた聖書という書物を、(著者自身がそうだから当然なのだが)神を体験する場ということを描くことができないままに、その謎はこうだぞと断言を重ねながら突き進んで示しているのは、入門という名を掲げる限り、詐欺であるし、誤った情報を与えてしまうことになる。聖書を、インテリめいた、裏を知り尽くしたような書き方で、無根拠な捉え方でも断言的にひとつの小説として描いたものを、入門書という名目で提供すると、ちょっと知的な読者はますます、聖書の謎が分かったぞというだけの、しかも偏見に満ちた理解に自信をもたせるようなことになり、そして救いを求めて聖書を読みたいと思い入門書だというから読んだ人が、聖書はこういうことかと誤解して聖書から離れていくようなことをさせてしまいかねないものとなってしまうのである。
 売らんかなの出版社にとってはこういう触れ込みのほうがよかったはずだ。だが、書いた者に責任がないということはなくなる。「あとがき」の弁解を読む前に、読者はすっかりその小説的な空想物語を真実と思い込んでしまっていることになるのだ。
 私はたとえ仏教について知識があったとしても、仏教入門という本を、頼まれても関心をもっても書かないだろう。それは仏教の信仰をもつ人に対して、またこれから仏教を知りたいという人に対して失礼であり、騙すような良心の痛みがあるからだ。しかし、もしかすると私は、小説家とはこういうものだ、と、聞きかじったことと想像とを元に、断言的に決めつけた書き方をした小説入門は書くかもしれない。だがそういうものを書いても、恐らく小説家たちの世界では許してくれることだろう。それぞれが自由な作品なのだと寛容にするものだろう。そういうことは村上春樹も言っていた。だが、それが甘えとなって、小説家が、表面しか見ていない聖書なるものを、聖書の謎を解いたぞと、一面の真理さえ書けば小説のあり方としては成功という思考回路から抜け出せずに、提供してしまったことは、残念だが、間違っていたと言わざるをえない。その点だけは、厳しく指摘しておかなければならない。
 誤解のないように念を押しておくが、この方がどのように聖書を読もうと、それは自由である。むしろ聖書に関心をもってもらったということを喜ばしく思う。だが、入門書という出し方で、キリスト教をこれから考えたいとか受け容れようかとかいう人に向けて売りに出したという点を非難しているのである。学生運動の世代である故か、著者は「あとがき」で弁解めいたことを述べた直後に、既存の宗教を批判したのがイエスでありそれは過激なことであるとして、過激なことを述べるのはむしろ正当なことだ、というようなことも言っている。そう、それはいい。だが、入門書のすることではない。その弁解めいた部分では「敬虔なキリスト教徒の方がお読みになると」と言っていたが、一般に、敬虔なキリスト教徒は、わざわざ信徒でない人が書いた入門書は読まないのである。ここにも、隠れたところで弁解しているぞという甘えが見られる、とまで言うと失礼であろうか。私は失礼ではないと考えている。




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