本

『聖書の日本語』

ホンとの本

『聖書の日本語』
鈴木範久
岩波書店
\3400+
2006.2.

 扱っている内容の紹介を見て、ぜひ読みたいと思っていた。だがそこそこの値がついている。ようやく手が届く範囲の価格になって注文したという具合である。
 日本の聖書に使われる、独特の訳語というものがあると思われるが、その多くが、中国由来であることは、多くの人が感じて知っている。申命記というような書名についてもそうだし、そもそも「神」という言葉自体、果たしてそれでよかったのかどうか、議論されるところである。「上帝」とどちらがよいのか、中国語訳でも非常に問題とされた語であるが、この中心概念すら、現地語ではすんなりいかなかったのである。もちろん「天主」というのも、広く認められた訳語であった。あるいはまたデウスなどというように、日本語を使わない選択肢もあった。
 本書は、その中国由来という視点と、だから明治元訳と呼ばれるあたりの訳語の原点と呼べるあたりの関係についての調査が際立っている。もちろん、その前の日本最初の翻訳と上記の中国語訳の問題も深く扱っている。特定の概念についての訳語の変遷を追いかけるようなものは、本当に細かく一つひとつの翻訳における関係者の苦労が偲ばれるものだった。
 そして一つひとつの訳書の成立とその背景についての逸話や事情についても、よくぞ調べ上げているものだと驚くほど、当時の関係者の息づかいすら分かりそうな描き方がなされていて、楽しめる。様々な学者や著名人たちが、訳語をどのように考えていたのかについても引用が多々あり、当時どのように見られていたのか、という空気をよく伝えてくれている。
 大正改訳は、私たちが今も用いることがある「文語訳」のことであるが、ここへ至る過程も、息詰まるような臨場感と、具体的な訳語の決定や修正などが生き生きと描かれている。そんな中で、「造る」と「成る」とについての件はなかなか興味深く拝見した。つまり、自発概念によって自然に物事が起こるという形で、主体の意思表示を隠す傾向のある日本語としては、世界が「成る」で感じとるところがあるものも、神が世界を「造った」という捉え方でなければ聖書的概念ではない、といった議論が生じるのである。
 本書のハイライトは、ここまでである。聖書と日本語、というテーマからすれば、日本語の変遷を鑑みてこの後口語訳が広まり、しかし戦後あまりに突貫工事的にできてしまった口語訳の評判がよろしくない中、次の企画ができ、エキュメニカルな視点から共同訳が作られ、だがパイロット版として出された共同訳があまりに斬新でぶっ飛んでいたように受け取られたために、方針転換して新共同訳が生まれた、といった辺りは、ざっくりとは記されているが、大正改訳までの緻密な調査や追いかけが少しも感じられなかった。「翻訳の歴史」という本書の副題については、もう少し細かな指摘があってもよかったのではないかと思われる。つまり、太平洋戦争前までについての叙述こそが際立つているということの表明があってもよかったのではないか、ということである。
 本書が生まれて十年余、新共同訳もさらに聖書協会共同訳へと翻訳の歴史は進んだことになる。新改訳も2017と名のつくものが作られた。これらの事情は、実は様々なシンポジウムとその記録、また翻訳委員会などの説明的な本が、かなり多く発行されている。私は手に入る限り、それには目を通した。これもまた、聖書と日本語の歴史には含まれるだろうと思うが、もちろん聖書協会共同訳のことは本書はカバーできない。しかし、戦後においては、こうした観点からではなく、聖書の訳語が一般的な日本語として逆輸入のように使われ始め、市民権を得ていくことがあったという話や、文学者が聖書を意識して文学作品を生み出しているという話が紹介され、聖書の訳語本来の経緯についての説明から離れていく。
 最後に「付章」として、クリスチャンに限らず著名人と聖書との関わりについてのコラムめいたものが並び、ここまで触れてきたような聖書翻訳についての歴史を簡単な年表形式で置いてみたものが付せられている。聖書の日本語という題の意味は、案外、いまの日本語の中に、聖書の翻訳語が現れていますよ、そしてその訳語は明治期以来の先人たちが、中国の聖書を参考にしながら試行錯誤を含めていろいろな苦労をして取り入れてきた歴史を背景としていますよ、というふうな構造の中に現れていることになるのだろうか。そんな気がしてきた。
 しかしこれらは、プロテスタント側の代表的な翻訳である。ラゲ訳が一瞬現れることはあるが、フランシスコ会訳については特筆すべきところは何もないのか、沈黙と言ってよいだろう。共同訳への運びのために、カトリックが加わり「イエスス」にするかどうか議論があった、という程度しか、カトリックについては言及されないようである。カトリックの訳は、日本語という方面に何ら関わりがないほどでしかなかったのだろうか。ないならないで、いくらかその辺りの事情についても説得してもらいたかったと思う。
 こういうわけで、ある場面にはよくぞここまでというほどに詳しい説明があるにも拘わらず、「聖書と日本語・翻訳の歴史」という大きな構え方をしたタイトルからすれば、期待はずれに終わる部分が多々あったような気がする。その意味でも、せめて副題でもよかったから、本書のウリのところを強調しておいたほうが、読者の求めにも応じられたであろうし、もしかすると営業的にも利があったのではないかと邪推する。恐らくこれくらい広く構えたほうが、ニーズが広く取れて、販売が増えるだろうと踏んだのではないかと推測するが、私は、マニアックなところをきちんと表に出したほうが、きっと良いだろうと考えている。どうだろうか。




Takapan
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