本

『イラスト新版 聖書の国・日本』

ホンとの本

『イラスト新版 聖書の国・日本』
ケン・ジョゼフ・シニア&ジュニア
徳間書店5次元文庫077
\720
2010.4.

 ちょっと怪しいシリーズの中に置かれているので、へたをするとオカルトものかと勘違いされる。いや、確かにオカルトものであるのかもしれない。なにしろ、キリスト教は1549年に伝わったと歴史で習う私たちの常識を覆すものなのであるから。
 もとより、この親子は、かねてよりこの主張を各地でしている。アルメニア人の系統であるというこの親子は、その祖先たるアッシリア人がその昔、ネストリウス派が異端とされて西欧を追われ、東へ逃れて中国で景教となり、それが渡来人を通じて日本にすでに渡っていた、というのが主張の基本筋なのである。
 説得力のあるものの言い方で、確かに思い当たるところはある。強ち空想だけだとか、オカルト趣味であるとかは言うことができないだろう。かといって、ここに書かれてあることのすべてがそのまま事実であると決めてしまうのも早計であるような気がする。というのは、事実こうなのです、としきりに言い放つ割には、学術的な手段として必要な証拠を示すことがないからである。あるのは、こういう歴史的遺物があるが、これはキリスト教の何々を意味している、という意味づけばかりである。3本足の鳥居があるから、これは三位一体の神を現している、というのは、証拠にはならない。神道側の理論や背景についての検討を少しも示してくれないのだから、フェアではない。まして、「地蔵」は「ジーザス」のことである、と断定されても、たんなる英語読みの「ジーザス」がそれと結びつくのか、これはもうこじつけのようにしか聞こえないのが悲しいところである。
 古い日本の歴史的人物も、実はクリスチャンであった、のようなセンセーショナルな記事も、だから、話半分に聞いておかなければならないであろうし、その他決定的な証拠のように挙げられているものも、眉唾ものに見えてしまうのは致し方ない。日本の苗字のこれこれこれの人は祖先がキリスト教だと決めつけられても、そんなに事は単純なものではないことは、常識的に判断できる。だから、情熱を傾けており、また自らのルーツが日本に大きな影響を与えているという一つの幻想に夢を抱いている著者親子の心情は理解できるにしても、それを直ちに歴史を塗り替える真実だとして受け取ることはなかなかできるものではない。
 もちろん、教科書の歴史こそが正しい、などと言うつもりもない。
 私の見解は、景教はたしかに日本に何らかの形で伝わっていただろうと思われる。中国朝鮮とのつながりが濃く、そこから文化をふんだんにもらった日本が、中国思想に一部溶け込んでいた景教だけは全く関わらなかった、とするのは不自然である。ただ、もちろんそれは歴史の表舞台に出てきたわけではなかった。その思想が某かの影響を個人的に与えたことはどこかであっただろうし、そこから文化遺産にも関わったというのもありそうなことである。今の寺院から千年の大昔において、景教に関わっていたからといって、特別に驚くことでもないように思う。ただでさえ、日本文化は、外来文化を自分たちに合わせて変化させて受容することの得意なものである。仏教も日本仏教に変容させたように、景教もまた、そのよいところを巧妙に組み込んだ可能性は十分にある。
 この本の意義は、そうした歴史の隠れた事実にひとつ目を向けさせてくれるところである。まるで教科書の記述通りに歴史が運んだ、と信じる人に対して、それは特別な為政者の手により描かれたものに過ぎず、生きた人々の歴史というものは、単純にそういうものではない、というこにと気づかせてくれるのだとすれば、大いに意義があることだろう。
 センセーショナルな内容に踊らされず、そのように歴史を見直す契機となるならば、この本はためになるといえる。そして残念ながら、それほど昔から影響を与えていたはずのキリスト教は、どんどん形を変えて今を迎えている。現代に生きる私たちは、「いま・ここで」ものを見ている。どう見たらよいのか。どう見てはいけないのか。歴史の中から学ぶためにも、何かの参考にしてみるにはよいかもしれない。
 それと、取り上げてもらってよかったと思えることは、日本における宗教弾圧である。それを、二百年単位で続いて行われた、夥しい数の犠牲者を出した虐殺である。キリシタン弾圧の事実は、もっと日本の中にはっきりと知らせなければならない。この著者のように、軽く比較することには私は反対だが、ヒトラーのユダヤ人虐殺や、近年のアジアの独裁者の人民虐殺についてそれを強烈に非難し、自らは原爆で犠牲者を大量に出した犠牲者だと主張する日本政府の一部の人々やそれに与する国粋的な思想の人々に対して、あなたの祖先はそれらよりも激しい虐殺をキリシタンに対して行ってきたこと、それへの謝罪などが済まされていないこと、これを指摘することは、まだ十分になされていることとは言えない。この本のポイントは、ひとつにはここにあると私は捉えている。




Takapan
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