本

『聖書百話』

ホンとの本

『聖書百話』
北森嘉蔵
講談社学術文庫1550
\860+
2002.6.

 1971年の書籍を文庫化したものだというが、内容は決して古びていない。これが伝統の良い所であろう。ことさらに時流に乗ったものだと、次の時代にはもう見向きもされなくなる場合が多い。が、この本は違う。聖書が永遠のベストセラーであるように、その聖書についての洞察を簡潔に記したものとて、輝きを失うことはないだろう。
 構成もシンプルである。百の聖書の節を集め、それの解説を施す。テーマごとに並べられ、それは 1神 2世界・人間・歴史 3イエス・キリスト 4聖霊 5信仰 6教会 7生活と倫理 8終末 というテーマである。見開き2頁でまとめられ、どこからでもどのようにでも読むことができるが、私はやはり最初から順に見て行けばよいと思う。テーマごとに一定の見解が味わえるからだが、確かにひとつひとつの信仰の事柄において、深く聖書を学べるように感じるからだ。
 ひとつの黙想のようでもある。だがまた、聖書研究に裏打ちされて、歴史的事実や文化を踏まえた、信頼のおける読みものとなっている。
 もとより、時代的な研究の趨勢というものもある。著者の見解は確かに数十年前の学術水準に基づくものもあるわけだが、その後の時流が適切であり真実であるという保証もない。パウロ書簡については、今の福音主義とでも言うべきか、穏やかな素朴な理解もかなりそのまま採用されている。だが、それは妄信のようものでもない。適切な信仰に基づいた、聖書の深い理解がそこにある。聖書の言葉を信仰するとはどのようなことであるのか、味わえるような気がするのである。
 著者の特色として、一定の理性的理解を優先するところはある。信仰の中心を、かなり単純化した図式で説明してそれを原理として他の様々な事象を説明するといった具合である。これは理解の助けとなる。しかし、単純化した知識に偏る信仰理解というのも不安ではなかろうか。頭で、そうか聖書はそのような原理で書かれているのだ、というように分かったつもりになってしまうことは危険である。反論する危険もあるが、信仰とはそういうものだと安心してしまうようなきらいである。
 だが、そこから危惧されるようなこうした心配は、あまりいらないようにも思う。著者は、言葉では表現できない、体験的なものがあることを十分におわせている。理解を助ける理解は掲げるけれども、それが第一なのではないということを繰り返す。いくらシンプルに説明したとしても、聖書は聖書である。考えも及ばぬような人を超えた神の愛による力ある営みが世界にあるということについて、折に触れ語る。また、語らねばなるまい。
 やはり、読者は自分の信仰というものがあって然るべきであろう。だが、自分の信仰があればそれで十分というのも危険性がある。今度は自分を偶像化していく可能性があるからだ。他人、あるいは同胞の信仰の意見に耳を傾けつつ、自分の見えていないところを補い、それでもなお自分の進むべき道を聖書から照らしてもらう、そういう繰り返しで人生を歩むものであろう。この本は、そういう一隅を照らす力のある本である。あるいはまた、信仰に確信がもてないで悩む方に、これでよいのだ、というひと押しをしてくれる可能性も感じる。
 なにぶん、読みやすい。ちょうど100に割り切った作風も、当てはめ気味ではあるものの、過不足なく語られているキリスト教のエッセンスが光る。教会制度ではなく、信仰の心について問いかけるものであるから、まずは一人で聖書を読むときのガイドのようにすることもできる。ともかくいろいろな刺激を受けることは間違いない。
 まるで、百人一首の解説を聞いているかのように、ひとつひとつを味わいつつ、だがまた一筋に読み進めても差し支えない流れを作っている。やはり、テーマごとに読み進むのがよいのではないかと私は思う。ただ、分かったふうにしてあまりにどんどん読み進むというのも、もったいない。時に瞑想を混じえ、可能ならば一日に一つずつ味わい、またノートしつつ進むというのがよいのかもしれない。まずは一度通読し、それからまた、改めてデボーションに用いるという方法もあると思う。小さい本である。邪魔にならない。聖書についてのただの知識というよりも、それが自分の中で命となって働くための助けとなるような存在となるのではないだろうか。




Takapan
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