本

『聖書と村上春樹と魂の世界』

ホンとの本

『聖書と村上春樹と魂の世界』
上沼昌雄・藤掛明・谷口和一郎
地引網出版
\1200+
2013.4.

 偶然の出会いだった。「聖書」というキーワードで本を探すのは日常なのだが、遊び心でそこに「村上春樹」と入れてみた。するとヒットしたのが本書だった。なんだ、これは。
 どうせまた興味本位で、素人同然の人が思い込みで何か書いているのに違いない、と詳細を見てみると、予想は裏切られた。聖書神学舎という保守的な団体で仕事をしている人、聖学院大学という立派なミッションスクールの教授で心理技官だという人、そしてなかなか真摯にキリスト教の出版をしている会社の代表ときた。これはマジかもしれないな、との思いで取り寄せてみることにしたという具合である。
 キリスト教界の常識から考えてみよう。村上春樹の描くファンタジーとも現実ともつかない世界と、露骨な性描写、そして下手をするとどこにも救いのない行き当たりばったりの物語、とても教会でまともに取り上げるタイプのものではない。ハルキーと呼ばれる熱烈なファンがたくさんいる一方、毛嫌いする人も数多い。教会なんぞは、後者を少なくとも建前とするのではないかと考えるしかないのである。
 ふとした話で村上春樹を互いに読んでいるということが分かってから、これら三人がそれをテーマに話をしてみないかということで、長い計画が立てられ、実現した。本書はさして分厚くないままに、さほど長くない鼎談が半分、そして残りは三人がそれぞれの立場や観点から、村上作品についてじっと語るという構成になっている。  それでも私はあまり期待しないつもりで読み始めた。鼎談では、なんだか当たり障りのないような言葉が飛び交うような気がしていた。しかし、少しずつ、その態度を改めた。少しずつではあるのだが、今の教会への適切な批判がこぼれてくるのだ。
 もちろん、村上作品のファンという三人である。その作品の内容を軸に話が進むし、文学論も出てくる。ただ、一般になされる文学論に比べると、いかにも素人っぽい話しぶりのようでもある。これは純粋に文学を語るというレベルで見ていくならば、浅いものでしかないのだろう。だが、聖書が三人のベースにある。できるなら、いまキリスト教界が見失っている世界を、村上作品を通して気づかせるような、思い切った提言がなされたらいい、というふうに思い始めながら読んでいった。
 村上春樹が言っているような、「物語を書くのは目覚めたままで夢を見るようなものだ」という言葉も紹介されているが、考えてみたら、これ、信仰の極意とは言えないだろうか。少なくとも私はそう感じる。現実の世界と交差する異世界を描く村上作品との関連で取り出したのだろうが、私は本書とは別のところまで考え始めていた。
 プロテスタント教会は、「物語」を軽視している。教義や命題を重要視して、それこそがキリスト教だと突きつけてくる。でもそれでいいのか。本書で三人が共通に抱くのは、その辺りであるような気がする。
 こうした批判が、村上作品をがんがん紹介しながら出てくるというのは、画期的ではないだろうか。作品を愛する人をぐいぐいと引き込んでいくであろうし、そこからキリスト教の問題にも気づかせてもらえる。だから、村上ファンのクリスチャンが、本書のターゲットであると言えようか。
 だが、そんな人が、いったいどれほどいるというのか。クリスチャン自体が希少価値があるように錯覚させるほどの少なさである。その大部分が村上などけしからんという中で、殆ど隠れファンであるような人が、どれほどいるというのか。
 とりあえずここに一人いたので、よかったなとは思う。いや、私にとっては実にありがたい企画なのだ。
 読者に自分の物語を作っていいのだと思わせるようなところがある。そんな指摘もまたうれしい。そしてこれまた、聖書の読み方そのものであるのだ、と展開はしなかったけれども、私に言わせればまさにそこが大切なのではないかと言いたいところだ。日本語ではそのとき「物語」としか表さないが、英語で言うと、「ストーリー」と「ナラティブ」とがある。前者は、筋書きのようなもの、あるいはこういう内容でしたよ、というようなところが注目される。聖書のここにはこのようなことが書かれていますね、このように理解すべきです、で終わるような見方である。後者は、もっと開放的である。その場では解決しないかもしれないが、それでいい。語り手が終わりの見えないままに語り、聞く者がそれに応えてこそ進展するというような創造性がある。聖書ならば、この話を君はどう思うか、君はどう受け止めて、どうこの問いに応えていくのかね、という構造になっている。それはまさに、祈りでもあるし、神との交わりそのもののことではないだろうか。
 もちろん、これにも危険はある。それでは聖書は各自が自分勝手に解釈して、それで思い込みのような世界に迷い込んでもよいものだろうか、という危険である。ただ、それはもうその個人のいわば自己責任でもある。むしろ、一人ひとりが神の言葉に生かされて生き生きと輝く可能性のほうに、比重を置いて信頼していくことを、選んだらどうだろう。
 だから、説教でも、今日はここから自由に皆さんが考えてください、というような形もありうるのではないか、と本書の中にはあったが、私は驚いた。何故かというと、ちょうどその時、そのような説教を私が書き上げていたからである。本書の提言していることに、私はそれを聞く前からすでに賛同していたことになる。またそれは、ここで説明されているほど、村上作品に根拠を置くものではなかったし、それに刺激を受けたから考えたということではなかったのであるが、なるほどそうやって村上春樹を読むというのは肯けるものがあるということも、気づかされて楽しかった。
 鼎談はそうしたタイミングで幕を閉じる。その後は三者三様に持ち味を出して語る。
 現実世界での行き詰まりから、異世界へと導かれる構造のものがいくつも作品にはあるが、現実世界に巻き込まれるように嵌り込み、その歯車となって安心できるならそれもそれなのだが、なかなかそうはなれない人も多いはずだから、そうした人が逃れていく道の可能性を示すようなところが作品にあるのだ。考えてみれば、聖書もまたそうした役割を担っていたのではなかったか、と私は思う。
 中には村上作品をいくつか丁寧に辿るようなところもあるから、そこはファンの方が楽しむためのサービスであるかもしれない。何もずっと全部、過激にキリスト教界の問題ばかり突いているのではないのだ。
 最後にまた、改めて本書は願う。聖書を教理の本だとか道徳の本だとかいうように、固定的にしか読むようであってほしくはない。新たに、ナラティブとしての物語として聖書を読んでもらえないだろうか。そんなふうなことを、熱く告げて終わる。私はそれでいいと思う。実に地味な出版で、キリスト教世界にも殆ど知られていないのではないかと思われる。村上作品をよく知らないと魅力がないのも、先に述べたように本書の弱点である。しかし、私は非常に共感を覚える。聖書を読む姿勢については、その通りだと思うし、私も事実これまでそうしてきた上、それを勧めてきたのだった。
 Amazonには中古でまだかなりの量がある。私が一番安い辺り(しかも美本)を買ってしまって申し訳ないが、村上春樹を読むクリスチャンがもしご存じなかったら、ひとつ如何だろうか。




Takapan
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