本

『聖書を原語で読んでみてはじめてわかること』

ホンとの本

『聖書を原語で読んでみてはじめてわかること』
村岡崇光
いのちのことば社
\1600+
2019.9.

 新刊のタイトルだけ見たとき、もっと軽いものかと思っていた。著者について後で調べるとこれはかなり堅いものだと知るべきであることを認識した。
 その辺りの事情が、「自己紹介に代えて」という名のまえがきに書かれていた。いや、これは十分自己紹介であり、ヘブライ大学に留学するなどして、現在もオランダを拠点に活躍していることもよく分かった。もちろん、ここには生い立ちのようなものが簡潔に書かれてあり、これはいわば「証詞」に相当するものであると思われる。多少自慢めいて聞こえなくもないが、必要な情報ではあるだろう。聖書を原語で見たら、和訳聖書だけで読んだだけでは見えてこないものがあることを知ってもらいたい、と本書の主眼示されていて、本の内容に期待できると思った。
 とにかく聖書というものがどのようにできたか、など、聖書について素人である人にも呑み込みやすく書かれている。恐らく、一般信徒が聖書をどのように読んでいけばよいのか、というあたりの入門書という意味で書かれてあると見てよいのではないかと思う。信徒の読書会で用いるとか、個人的に聖書を聖書として深く読みたいという信徒が少しばかり時間に余裕があれば、ここにあることを頼りに何かしら語学に興味をもつとかいうところで活躍できそうな本であろう。福音的な話の好きな信徒に対して、やや読者ウケしそうな話題も随所にあり、語学教育ということではなく、原語のもつニュアンスが日本語訳では伝わりにくいのだという実例が、終始綴られているのである。
 章立ては、ヘブライ語・ギリシア語・アラム語という三本柱で、アラム語は聖書の中で占める割合は小さいのであるが、福音書にもアラム語で言い換えられてそれをギリシア文字で音として掲載しているというような、解釈上貴重な場面があるわけで、また著者自身そこに強みがある故に、説明が施されている。これは比較的稀な内容となるものであろう。
 ヘブライ語のときには、聖書のいくつかの場面を具体的に、詳細に扱っていく。それでも、専門的な扱いではなく、文法用語も最小限にして、少しばかりやる気のある信徒ならついてこれそうな内容であるように見える。とくに、ダビデとバテ・シェバの話については60頁ほどを費やし、力が入っている。
 著者の聖書の文献的眼差しは、冷静である。信仰についてはもっといわゆる福音的なのだろうと思うが、聖書がどのようにして書かれたかなどについては、かなりリベラルな見方を呈している。もとより学者である以上、そうでもしないと適切な研究にはならないということもあるだろう。このことが恐らくより信頼の度を増すようにも思える。しかし原典に基づくということは、本当に原文のニュアンスや背景を押さえてこその態度であるから、私たちは、限られた箇所しか本書には集められていないにせよ、心して学ぶ必要があると言えよう。確かに、本書の目的のように、原語で読むことへの関心を呼ぶという意味では、十分な書き方がなされていると思う。
 ところで本書の特徴は、このようにアラム語も交えているということも入れてよいが、それ以上に、新約聖書を適切に解釈しようという意志の中に現れているように思う。具体的にいえば、七十人訳の重視である。七十人訳葉、ユダヤ人が新約聖書の時代に標準としていたと思われるギリシア語訳の旧約聖書である。これはヘブライ語聖書と比べると、かなり独特の理解がなされている、あるいはヘブライ語聖書とずいぶん違う部分もあり、いま私たちはこれを底本とした聖書を、基本的に手にしてはいない。しかし、新約聖書を筆記した人々が用いていたのは、恐らくこの七十人訳聖書であろうと目されるのだ。というのは、ヘブライ語聖書から引用したという記述が新約聖書には多数あるが、それを見ると、ほぼ間違いなく七十人訳から引用していると一般にいわれるからである。どうかするとヘブライ語聖書が読めないユダヤ人もいたと思われ、それは私たち日本語を母語とする者が、日本語訳聖書だけを読んで信仰生活を営んでいるのと同様である。パウロが手紙を書くときにも、当時貴重でまた全部揃えると大部になる聖書を携帯しつつ旅していたとは思えないのだから、多くの書簡の中で引用される旧約聖書のフレーズや内容は、七十人訳の解釈に基づくことになってしまうのである。これが、引照箇所を実際にいまのヘブライ的な旧約聖書を底本とした日本語訳聖書を実際に開いて見たときに、新約の引用とずいぶん違うことが多いことの背景である。
 となれば、七十人訳の理解で、旧約のメシアがこのイエスである、というように考えるようになったのであり、また救いはこうだ、と呈示しているということになる。私たちは日本語訳聖書を開き、ヘブライ語から訳した旧約聖書を引用して、その実現が新約聖書のキリスト・イエスである、として読んできたのだが、実は新約聖書はギリシア語訳聖書の表現で解釈して、メシアを指し示しているということになるだろう。それなのに、旧約学はヘブライ語聖書に頼り、七十人訳聖書を駆使して解釈するということから余りにも離れているのではないかとも思う。新約聖書は、七十人訳聖書から引用して、イエスをキリストであると証言しているのである。
 新約聖書の名場面も、明確に引用という形をとっていなくても、旧約聖書のある箇所のギリシア語訳と、同じ語が使ってあるというものがある。それも、使用頻度が極端に低い単語であると、やはりその七十人訳をベースにして、新約聖書の記者が綴っているということになり、益々ギリシア語訳旧約聖書のもつ意味が大きくなっていくものである。
 信徒ならば非常に関心をもつような事柄について取り上げ、原語で読むことの意義が一冊ずっと網羅されている。文法的な知識や専門的な理解がなければ読めないということはない。そうした用語は極力使わずに済ませている。また、その説明を読んでいくだけで、聖書時代の背景について、歴史的状況について、学ぶことが知らず識らずの間になされているというからくりもある。言語学だけの問題ではなく、聖書をより深く理解するためにも、これはなかなかの出来である。原語も基本的にカタカナで表示してあるので、読むことそのものに苦労は要らない。教会での学び会にも、個人の霊的な学びのためにも、使い道はいろいろありそうだ。聖書がより深く学べることになるに違いない。




Takapan
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