本

『ボードレール 他五篇』

ホンとの本

『ボードレール 他五篇』
ヴァルター・ベンヤミン
野村修編訳
岩波文庫
\760+
1994.3.

 気づかないときには気づかないのであるが、何かの問題について考えていて、その資料を探したり、また論評や記事を読んだりしているとき、気づくようになったのだ。ベンヤミンの名である。大切な問題に言及しており、また論者が引用する。ぼんやりと人物について聞いたことはあっても、著作を読んだことがなかった私のような凡人でも、これはちょっと気になる存在となってきたではないか。
 特に本書では、「複製技術の時代における芸術作品」が気になったので、この本を選んでみた。タイトルの「ボードレール」は、直接読んだことのない身としては肩身が狭かったが、並び称されるフローベールは、「ボヴァリー夫人」くらいなら知っているので、当時のフランスの文学の雰囲気からして楽しめるかもしれないと思った。カフカやブレヒトにいても疎いので仕方がないか、ベンヤミンを通じてその時代と人物を見てみたいと思った。
 だがやはり、芸術に対するひとつの見解として、複製技術についての論評は一番関心が強かった。コピーができる芸術作品というものは、いったいどのような価値をもつのだろうか。これは現代ではもうなし崩しになっていて、果たしてそれが芸術てあるのかどうかさえ、もはや議論されることがなくなった。ということはまた、いまは芸術とは何かということについて、もはや誰も考えなくなったということである。芸術論は意味をなさなくなっている。定義も不可能になったし、たとえ論評を始めようとしても、ほとんどナンセンスであり、そもそも議論しようなどという相手が見つからなくなってしまう。
 ベンヤミンがこの評論を書いたのは、1936年であった。この電子時代とは訳が違う。だから彼かターゲットにしたのは、映画であった。映画というのは果たして芸術なのか。20世紀になり、映画が登場したことにより、芸術そのもの、そして芸術家たちもが、変化を与えられたというのである。
 そしてここに、有名な「アウラ」という概念が登場する。「アウラ」は複製されない、というのである。ベンヤミン自身は、さも当然のようにこの語を使う。しかし、その「アウラ」なるものが何であるのか、何でないのか、一向に定義をしようとしない。解説によると、これを「オーラ」とでも読むと、私たちも何かを感じ取ることができるのではないかということが分かるが、勝手な断定は控えよう。えもいえぬ何かが、芸術作品の背後にはある。コピーしたものにそれが宿りえないような、何かあるもの。それはもしかすると、創る者、受ける者それぞれにある自由さの中にあるもの、生命そのものにつながるようなものであって、定義するような対象化することによってすでにもはやそれではなくなってしまうようなものであるのかもしれない。
 芸術という概念自体、たとえは古代からあったわけではないだろう。近代批評において、それは芸術だね、と言えるようになったものが芸術であるとするならば、いまこの時代において、芸術がその近代的な意味から崩壊したとしても、惜しむ必要はないのかもしれない。しかしそのとき、新たな意味で、それを指す言葉や概念が必要になるだろう。そうでなければ、それを守ることができなくなる。ベンヤミンが信じていた「アウラ」が、消えてしまうかもしれない。
 私たちも「アウラ」があるとすると、そのアウラを生かしていく道が、与えられているのではないだろうか。私たちの、そして人類のこれからのアウラを求める道が、あるのではないだろうか。ベンヤミンの遺した謎である「アウラ」を、捜しに行こうではないか。




Takapan
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