本

『カール・バルト 教義学要綱』

ホンとの本

『カール・バルト 教義学要綱』
カール・バルト
井上良雄訳
新教出版社
\2000+
1993.4.

 難解な文章に当たると辟易するような、20世紀の偉大な神学者カール・バルト。独特の言い回しや語り癖があるから、少々味わい読み慣れないと、言おうとしていることが分かりづらいと思われる。
 だがこれは違う。かなり軟らかである。それでももちろん、言い方が回りくどかったり、歴史上の知識を要求する論となったりもするのだが、しかし本書は講義録である。タイトルからは分かりづらいが、「使徒信条」を読み解くものである。戦後のボン大学における講義で、晩年のものであることも、その言い方が丸みを帯びることに益となっているかもしれない。もちろん、相手が学生であるということも、その一因である。
 使徒信条に入る前に、信仰を3つの要素から捉えることを宣言する。それは信頼・認識・告白であるという。同じ神学を語りそれを読み解くにしても、そもそもどこに立っている話なのか、どの方向を見ているのか、つまりはどんな地平がそこに見えるのかという点を曖昧にしていては、各自が好き勝手なイメージで投げかけられた言葉を解し、互いに通じない解釈を以てぶつかり、争うようなことにもなりかねない。教会の信仰は出会いであるとか、理性的なものであるとか、そうしたスタンスをとり、信仰という言葉をどういう意味で使うのか、まずはそこから学生たちの視点を定めておくかのようである。
 それからは、使徒信条の一言ひとことに触れつつ、論じつつ、また恰も黙想するかのように、言葉が連なっていく。講義の都合であるのだろう、終わりに近づくにつれ、端折るようになり、前半のような緻密な議論がなされなくなっていく。もっと教会というものについての解釈が深く施されていくことを期待していた向きには、尻切れトンボのような印象は否めない。生きた講義が生み出したものであるとして、この一つの流れが作品として現れたことでよしとしておくのがよいのではないかと個人的には思う。
 そもそもタイトルの「教義」とは、神の御言葉の模写として教会において妥当すべき事柄のことであるとバルトは定義しているため、これは教会の問題である。教会の宣教はこの教義と一致していくように問われなければならない。あれほどドイツの多くの教会を生ける屍のようにしてしまったヒトラーのナチスが滅んだ後で、それを願っていた教会の代表のような立場でバルトは、いまここで新しく育つ神学を支える学生たちに向けて、これから君たちが築く教会はどういう土台の上に建っていくべきであるのかを熱く語ろうとするのである。
 本書は、新教セミナーブックスの第一号である。この後、単行本として、神学書の中から選ばれた良書を提供し続けている。時代を過去にもつ書籍であっても、神の言葉そのものが変わらないように、必ずしもそれが過去のものになったとは私は思わない。超克されたなどということは少しもないし、むしろようやくいまここへきて、現実化していこうとしている側面がありはしないかとさえ考える。バルトの熱意を一旦受け止めてよいのではないか。書物という形で、私たちはこの巨人と対話することができる。それが許されている。学ぶ機会をもつべきではないか。もしかすると、バルトが戦った敵は、本当はまだ死んでいないのかもしれないらだから。




Takapan
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