本

『バルトこぼればなし』

ホンとの本

『バルトこぼればなし』
マックス・ツェルヴェーガー
渡邉恵子訳
一麦出版社
\2000+
2016.6.

 111頁目で「あとがき」が終わる。A5の変型サイズで、文字が大きく、行間も大きい。確かに白黒で写真がところどころあるのは、貴重な資料であるかもしれない。だが、この価格は、よほどのファンでなければ手に取らないのではないか。
 第一部では、娘婿のツェルヴェーガーによる「義父カール・バルトの思い出」が、第二部では孫たちの思い出の中から「カールおじいちゃんの思い出」と題して取り上げられた文章が集められている。そのどこにも、バルト神学は出てこない。家庭にいる普通のおじいちゃんの姿がそこにあり、講演会に招かれるなど、旅に同行したときの様子や、家での普通の生活の姿に見られるエピソードなどが、温かな眼差しの中で綴られている。
 バルト神学を読む人は多いし、それに対する賛同も批判も、様々である。専ら神学としてそれは検討され、神学に関心がある者は繙く。難解な文章が著作には多いが、刑務所での説教などは、分かりやすい言葉遣いで語られており、それぞれの関心に従って本を開くとよいかもしれない。ただなにしろ、日本でも一時期大変な人気があり、福音を神学的に裏付けるときに、いまも決して輝きを失ってはいないものと思われる。
 神学理解だけがバルトへの人々の眼差しではない。ナチスに抵抗した教会らの中心にいたこと、戦後も平和のために発言をしていたことなど、社会的な領域でも意義ある働きをなしたと見なされる。
 亡くなったのは、1968年である。直接バルトを知り、また交わったという人も、21世紀をしばらく過ぎてくると、存命者が減少する。その中で、家庭的なつながりの中で触れあった「孫」たちにとっては、神学云々は別にして、ほっこりしたエピソードが漏れてくることが期待できる。本書は、そうした家庭の中のバルトの姿を描く。
 最初の筆者は娘婿である。ということは、ある時を境に、バルトの親族となってゆくのであって、その情景から私たちにここで知らされることになる。そこでどんな会話があったのか、はもちろんのこと、どのような言い方、癖があるのか、といったこともリアルに伝わってくる。
 しかしまた、何気ない会話の中にあることから、バルトの著作の中にある考えを重ねてくる、という書き方もある。「私は罪の赦しを信じている」と書いてあること、「神の恩寵……に、我々は大いなる信頼をよせて、自分の身を任せることができるだろう」などと言っていることも、バルトの日常を支えていることなのだ。
 日曜日は大切な安息日であるのだが、執筆中にうつぶせになっていたとき、少し休んでいたらよい旨を進言すると、「聖書のどこにも日曜日に聖書を読むなとか、聖書に専念するなとは書いてないけれどな」と応えたという。バルトにとっては、「聖書がすべて」なのだ、と回想している。
 招待された夕食会の場でのスピーチでは、「神への依存においてこそ、我々の活動は自分自身のものとはならないし、また、他者へ奉仕をすることが、我々の人生を有意義にするのです」というようなことを言う。そうして、それは「神への奉仕に向かうべきである」と書いていることへとつながる、人間存在の意味についてのバルトの考えを指し示していることになるのだろう。
 孫たちの語りの中では、よくモーツァルトが登場する。「モーツァルトのすばらしさは、自然の中に神の声を聴いて、音楽でそれを再現しようとしたところにあるのではないだろうか」というバルトの言葉が、モーツァルトへの入れ込みようをも語っている。ラジオ番組では、「モーツァルトの音楽は人生の最後に出合う言葉だ」と口にしたという。その他、どんな思い入れがあるのかについては、直に本書を辿ることをお勧めする。
 最後に近いところで、このように書かれているところがある。その言葉でこの紹介を結ぶのが、最も相応しいことであろうかと思う。「カール・バルトは、神から与えられた人生を、すばらしい家族と友人たちに恵まれて、真摯に歩んだ愉快な信仰者であった。」




Takapan
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