本

『聖書と説教』

ホンとの本

『聖書と説教』
カール・バルト
天野有訳
新教出版社
\1995
2010.3.

 20世紀最大の神学者と称されることもある。その膨大な著作は、なかなか刊行が進まない面もあっただろう。とくに邦訳は大変である。その中から、「バルト・セレクション」として企画されたのが本シリーズである。しかも、これは文庫ときている。文庫であるにしても、たとえばこの第一巻でも600頁を超える分量となっていて、価格も本体1900円と、文庫の域を超えている。このシリーズが、全7巻予定されており、ようやく第一巻ができ、第二巻はまた一年がかりで作られるような具合となっている。たんに編集しようかという当初の考えは、新訳という形に改められた。今回はバルトの説教中心であるが、そこで引用された聖句が何訳に基づいているかまで検証してあるほどに、訳注が充実している。学生でも読めるように、様々な用語解説まで準備してあるのである。
 多くが、バーゼル刑務所における説教のものである。そこの牧師に依頼されて、クリスマスやイースターなどに幾度もバルトは説教をするようになった。
 刑務所である。そこにいるのは、熱心なよい子の信徒ではない。しかし、罪人だというレッテルを貼られた人である。そこに語られる言葉は、本来関心を持っているとは言えないが、福音が届く可能性は確かにあるわけである。しかも、この原稿を読む私たちにとって嬉しいことには、このような環境で語られた福音であるから、実に分かりやすい説教だということである。難解な神学者の名前や学説を持ち出すわけではない。キリスト教用語を羅列して複雑な語義を解釈するのではない。誰が聞いてもその場でキリストの愛や救いが伝わるように語られているのである。特別伝道集会である。バルト神学の背景を知らなくても聞けるのである。
 説教は、このバルトにおいても、祈りに始まり、祈りに終わる。しかも上のような事情であるから、むしろこの祈りにおいて、祈りの中から神が語るかのように、福音がこめられている。説教者の真摯な態度がそこにこめられている。この祈りが、実に長い。その祈りが、全文載せられているのである。説教前も、説教後も。
 あげく、説教者が選択したであろう讃美歌まで添えられている。およそ説教原稿としては完璧である。
 開かれる説教箇所も、簡潔である。長々と引用されているわけではない。聖書の中からただ一節のみ、という具合だ。その一つの言葉に思いを集中して語る。バルトの説教がすべてそういうスタイルであるかどうかは知らないが、これはやはり福音を伝える場合に良い方法の一つであろう。そして、バルト個人の話題や、社会的話題もほどよく含め、抽象的な話にばかり走らないようにする。しかしまた、刑務所で自分というものを見つめ深く人生について考える機会の少なくない受刑者の心に届くように、ある側面に集中して、心の一番深いところまで沈んでいくような追及も怠らない。だからそこは抽象的に聞こえるかもしれないが、実は内面的な思索をする人にとっては、非常に具体的であると言えるのである。
 クリスマスやイースターものが多いと触れた。しかし、お決まりのクリスマス物語に終始するのではない。イエスが受肉したという福音は、何もいわゆる降誕物語には限らないのである。バルトもまた、様々な箇所から、その福音のエッセンスを余すところなくここで披露する。私も大いに参考にできる。名説教を読むというのは、たいそう刺激的であり、学びの模範となる。
 決して安い価格だとは言い切れないだろうが、通常こうした全集ものや神学ものは、この価格の二倍から四倍ほどの値段がつくのが通常である。その意味では、確実に、安価である。このシリーズ、実に気長に待たないと刊行が進まないようではあるが、楽しみにしていたい。セレクション、つまり選集で十分だという読者は、潜在的に多いはずだ。だから、バルト研究者や選者は、ぜひ良いものを選び、紹介して戴きたい。
 日本では、滝沢克己のように、バルト自身と親交のあった人もいる。日本では依然人気の高い神学者であるが、西欧では近年その評価が下がっているらしい。しかし、危機の神学とも呼ばれた、そのナチスへの対峙の姿勢は、冷戦以後も緊張の続く世界の中で、意味がなくなったわけではない。とにかく、神の言葉は永遠に立つのである。バルトの一部が古びたとしても、神の言葉が古くなることはない。私たちはバルトという窓を通して、さらに聖書を深く知る体験をもつこともできるであろう。このような良い企画を、出版社が続けていてくれることを願うばかりである。




Takapan
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