本

『バカロレアの哲学 「思考の型」で自ら考え、書く』

ホンとの本

『バカロレアの哲学 「思考の型」で自ら考え、書く』
坂本尚志
日本実業出版社
\1700+
2022.1.

 バカロレアというのは、フランスの大学入学資格試験である。詳しくここで説明に走るつもりはないが、要するに、これに合格しなければ、大学には進学できない。進学分野がどうであろうと、全員に課せられるのが、「哲学」である。これがあるから、フランスで学問の分野に進むとなるときには、それなりに哲学的思考が備わっていることになる。
 私は昔、フルキエの『哲学講義』を購入した。フランスの高校での教科書であるという。いやはや、とても高校生が読める代物でない、と思った。いま、ちくま学芸文庫にあるので、気になる方は覗いてみるとよいと思う。
 日本には、この「哲学」を学ぶ機会がない。これは決定的によくないことだと私は思っている。もちろん、フランスの通りにやればよい、などとは思わない。だが、日本にはあまりにも哲学を知る機会がない。高校の「倫理」は、いくらかの哲学史を含んではいるが、哲学ではない。哲学とは、自ら思索することであり、論理を学ぶことでもある。カントは「哲学する」ことを学ぶ必要があると訴えたが(それも文脈があるので含みはまた違う)、議論する論理さえ学ばない政治家が、国際交渉に耐えられるはずがない、とさえ思う。
 さて、本書は、そのバカロレアの小論文を具体的に追いかけたものである。そして、知識内容というよりも、むしろ「思考の型」を身に着ける教育であろう、という視点から見つめていく。
 その「型」についての説明が長い。しかしまた、ただ「型」だけで終わるはずがない。哲学者の思想を「引用」という形で論文に取り入れることが、評価の対象となる。だから、書くことはある程度の分量であるにしても、それを書くために、膨大な本を読まねばならないということになる。しかも、どういう議論が来ても対応できるように、様々な歴史上の哲学者の思想に触れておかねばならない、ということである。
 そこで、実際バカロレアで出題されたテーマなどを紹介しながら、「型」を活かして、しかも議論をどのように組み立てて書いていけばよいのか、かなり突っ込んだ形で本書は進んでいく。
 ただ、私はその具体的な論文形成を辿りながら、少しばかり首を捻ることが多かった。そこには名うての哲学者の名前が駆り出される。プラトンはどう言った、カントはこう言っている、というふうに繰り出されるのであるが、もうひとつ議論に噛み合っていないような気がしてくることがあったからだ。
 そのうちに、気づいた。著者は、社会学の畑の人なのだ。いや、文学部であるし、哲学教育が専門で、フーコーの名前もプロフィールに出している、と言われるかもしれないが、著者が触れているのは、各哲学者の社会的な関心の部分ばかりなのだ。そして時に、マルクスを熱っぽく語り、気がつけばずいぶんとそれだけで頁を費やしている、ということもある。プラトンやカントの、形而上学的な視点は、著者の議論や紹介の中には、殆ど感じられないのである。たとえば、「自由」というテーマで、かなりよい議論の方向性が見えたにしても、すぐに「社会の自由」に飛び込んでしまい、自由の概念はそこに行き着くのだ、と言わんばかりの話になっていく。選択意志の自由や、自発の自由というところには見向きもしないのである。
 巻末に、本書で扱った文献が並んでいる。哲学者の著作も挙げられている。別に文庫であって結構だが、案の定だった。カントの場合、三批判書はそこには出てこない。社会学的観点から捉えるものが多く挙げられるが、マルクスに関しては本が示されず名前だけだった。きっと、あまりに多すぎるということなのであろうと想像する。
 もちろん、高校生が形而上学をやっていなければならない、とは思わない。だが、形而上学の論理は、まさに思考の「型」のためにも、役立ちうるものではないかという気がする。実際、これよりも高度なテストになっていくと、さらに抽象性が増すようになる。社会学的な事例ばかりで本書が済まされている点には、それが本当に「哲学」なのか、と尋ねたくなるのである。それは、本の表題に「哲学」が掲げられているためだ。哲学が形而上学でなければならない、などと言いたいのではない。この題で勝負するのであったら、もっと別のアプローチがあったのではないか、と問いたいのだ。
 思考の「型」というコンセプトは、それはそれでよいと思う。バカロレアにのぼせて、さあ日本でもそれをやろう、などと言おうとしているのではないことも分かる。むしろフランスでも、近年さかんにこの制度をいじっている。現状が最善ではないことが分かっているためだ。コロナ禍に陥ったことも、改革の因となっているのだろう。バカロレアの紹介には異議を挟まないけれども、そもそも日本の教育の中に「哲学」を取り入れようとしないという、根本的な不条理がある点に、私たちは気づかなければならないのではないか、というように私は考えている。
 それは、社会学でもないし、広く浅く器用に知識を集めることでもない。著者は、いろいろ知っているんだぞ、というような雰囲気で知識を並べているような部分があるが、たとえこのような本の中であるとは言っても、範囲が拡がれば拡がるほど、底の浅い知識の紹介になっているようにも見えてくる。意地悪なものの言い方をしているように聞こえるだろうし、おまえには何が分かっているのだ、と言われても仕方がない身分であるのだが、知識を並べるのではなくて、もう少し本当に「型」を組み立てるための訓練を施すような、本の作り方のほうがよかったのではないか、としみじみ思うのである。




Takapan
ホンとの本にもどります たかぱんワイドのトップページにもどります