本

『アウグスティヌス <私>のはじまり』

ホンとの本

『アウグスティヌス <私>のはじまり』
富松保文
NHK出版
\1000+
2003.11.

 NHKがこんな「シリーズ・哲学のエッセンス」という仲間の本を、しかも割安感のあるものとして出版していたとは愚かにも知らなかった。
 実に良いのである。見かけは入門書だし確かにそうだろうと思うが、非常に深いところをえぐっている。
 アウグスティヌスは、やはり『告白』が読みやすいだろう。教会論として大部の著作はあるが、『告白』は哲学思想史上でも非常に意義深い書となった。「個人」という考え方がはっきり出ているからである。もちろん当時の当人はそんなことは考えてもいなかったことだろう。ただ神の心に導かれるままに綴っていたのだろうが、結果として本書のサブタイトルにあるように<私>のはじまりがここに成立してしまったのだ。
 本書の始まりが心憎い。新約聖書の第一コリント13章、パウロによるあの「愛の賛歌」から始まるのだ。信仰書ならいざ知らず、哲学の歩みの中で、アウグスティヌスと雖もどうしてここからスタートするのか。それは読み終わるときにはっきり分かるはずである。だからこれは読者へのお楽しみとしておくほうが、親切というものだろう。私もこの愛の章から話をしたことがあるが、そして私にとりここは、自分の救いの決定的な箇所となったが故にまた、非常に思い入れの強い箇所である。そこで、「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる」(13:12)、ここに著者は足場を置く。ついにはこの箇所のコメンタリーとして、百頁余りの本書のすべてが成立していた、というほどの意味をもつまでになる。
 有名なことであるし、私もそこから話をしたので、ポイントを明かしておくことだけはお許し戴きたい。この「おぼろに」というのは、元の言葉では「謎において」である。著者はラテン語から引いているが、もちろん新約聖書の原語たるギリシア語でも正にそうである。著者は、昔の人は自分の顔を見る習慣がなかったので、鏡に自分の顔が映っても見たことがないので自分だという認識が薄いというような前提から本書を展開していくことになった。曇ってでもなければ見えるはずだが、というような著者の言及からすると、どうやらキリスト教の理解において通説であるように、この箇所が、昔の鏡が現代の鏡ほどクリアではなかったことに基づくという点はご存じなかったか、意図的に触れなかったか、と推測するしかない。川の水のような水面があれば、人は自分の顔を見て知っているはずである。まさか水に映った自身に恋をするわけでもなかろう。本書はこの鏡での対面というのが、<私>の認識のための重要な背景になっているから、ここだけが叙述上惜しいと思う。
 要するに自己認識の問題である。それを、近代人の立場ではなく、あくまでもアウグスティヌスという基盤の上で考える。必要に応じて、中途でアウグスティヌスの普通の入門書のようにその生涯や思想についてもまとめられているが、それを経た上で、神と向き合う人間のあり方に戻ってきて、結ばれる。聖書を知っているときっと読みやすいし、アウグスティヌスの著作もなんとか読んでいればきっと読みやすい。そのどちらもない読者にとっては、純粋に自我についての考察の哲学的思考の本としか読めないことになるのだろうが、そうなると、最後に畳みかけるような著者の筆致にどのようについていくようになるのか、私には具体的に想像がつかないのだが、自分の存在について真摯に考える人には、きっと触れるもの、得られるものが多いのではないかと思われる。
 第一コリントの「謎」については、最後まで呼応して、そのテーマで締めくくられるという構成もいい。<私>は<私>にとって謎であるが、現にこうしてあるはずの<私>がそれを判断しており、謎だと感じている。その<私>とは何か、それを問えば問うほど、無限連鎖に陥ってしまう。ドイツ観念論が指摘したことも今は昔、そしてアウグスティヌスはそれよりさらに千年以上遡る中でそれを考えていた。特に時間についての、聖書に基づきつつも普遍性をもつ問いは、いまなお人類にとり「謎」でしかないようなものとなっている。私たちは、永遠に<私>を探し続けるのかもしれない。そして、それこそが「哲学」であり、「哲学」であってよいのである。
 関心をもたれた方には、丁寧なブックガイドもある。私もその中からひとつ求めてみることにした。非常に良い紹介のされ方があったからだ。
 この「哲学のエッセンス」のシリーズは全部で24冊あるという。自分の無知を恥ずかしく思う。機会があれば他のも見てみたい。




Takapan
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