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『アウグスティヌス著作集6 キリスト教の教え』

ホンとの本

『アウグスティヌス著作集6 キリスト教の教え』
アウグスティヌス
加藤武訳
教文館
\3800
1988.7.

 どこでそう聞いたのか忘れてしまった。アウグスティヌスの「キリスト教の教え」がいい、という話だった。早速探したが、なかなかリーズナブルな価格では見つからなかった。気長に待っていると、手頃な価格になったので取り寄せた。立派な本だった。著作集を全部揃えるような懐具合もなければ、置き場もない。1冊なら、まだいいか、ということで喜んだ。
 訳の質がよいと思った。訳語についての丁寧な選択基準やその理由なども細かく触れてある。そのような意味も含めた「注」が30頁ほどある。
 だが、それにも増して本書の際立った特徴は、その「解説」である。なんとこれが100頁以上ある。本編が300頁もないことを考えると、この「解説」は尋常ではない。
 それに気がついた私は、本編よりも、まずこの「解説」を読むことにした。それせは、本書の背景についての解説に留まらず、本書の内容についてのコメンタリーのようになっており、内容を、ずっと現代的な意義も含めて辿るのだ。
 本当は、これらを並行して読むのが一番よいのかもしれない。しかし、実のところ、アウグスティヌスの叙述は、とても分かりやすい。役者の腕前でもあるのだろうが、議論の内容が、非常に平易なのである。もちろん、哲学は、平易な表現だから分かりやすい、と単純に決めつけてはならない。アウグスティヌスの場合も、その思想が後世に与えた影響を含め、当時の論争や、神学的常識のようなものまで考慮すると、たいへん複雑な事情が隠れている。異端や他宗教との論争のようなこともあり、教会内部でも議論のあることがあったはずである。そうした事情や背景を「解説」は教えてくれるし、その議論の意味合いもたいそう詳しく語り、また問題点を整理する。私は、初めに見ておくことにした。
 そしておおよその議論を一度踏まえた上で、アウグスティヌスの語りについては、楽しく受け取ることに決めていた。一つひとつの章が短く、論点が分散していないため、ちょっとしたSNSの記事を見ているような感覚で、読んでゆくことができるのである。
 但し、最初に置かれた「はしがき」は、読むのも最初にした方がよいと思う。わずか2頁であるし、本書の基本的な位置について、簡潔に説明されている。「アウグスティヌスは、ギリシャ・ローマの修辞学の方法を聖書解釈にあてはめた」ことや、この書を「とりわけ若い聖職者のために書いた」ことなどは、基本設定として、まず掴んでおきたいものである。これは「聖書学」のためにも役立ったが、「文体革命のさきがけと鳴った」というのりが、訳者の見解であると思われる。私には、そこまで「解釈学」のスタンスからばかり見るのではなく、聖書の読み方として言われるままに楽しんで読んでいるだけでも得るところは大きいと思ったのだが、1988年当時の神学界の関心事がそこに強く置かれていたのだとすれば、それはそれでよいかと思う。
 だが、何もここには神や罪などの教義を並べているのではないことも確かである。第一巻は「ものについて」ということで、アウグスティヌスが「もの」と呼んでいるのはどういうことなのか、それは「解説」を見ておいたのですんなり入ってゆくことができた。現代日本人が「もの」という言葉から考えるのとは、訳が違うようなのである。このタイトルの下に、三位一体の教義や、神を言葉で言い表すことの不可能性、そして自肉や復活、教会や愛といったテーマについてたくさんの話を聞かせてくれる。その終わりの方には、確かに「聖書解釈の規則」が整理されており、ここは「解釈」についていまに響くものを有していると言ってよいのではないかと思う。
 第二巻は「しるし」という第であるが、訳の問題などが取り上げられ、確かに「解釈」というテーマは、よく貫かれているように見える。記号論にも関わる問題が取り上げられてもいるが、後半では論理学の意義や、弁論術なるものの効用などにも触れられており、やはりただの「キリスト教入門」というのとは大きく異なる。それよりも「聖書の読み方」の方に近いだろう。信仰云々を熱く語っているようには見えないのである。
 第三巻は「しるし」の続編となっているが、理解の仕方の基本を説き明かすところから始まり、比喩についても基礎的な話をしてくれる。当時の捉え方がよく伝わってきて、面白い。文字通りに受け取ることについての滑稽な例を交え、聖書の文字をどう理解してゆくとよいのか、そのような視点は、案外現代にも有用であるのかもしれない。ティコニウスという人の、そうしたことについての「規則の書」を細かく扱うところなども、味わい深いものがあった。
 第四巻は「表現について」である。ここには、弁論、特に雄弁というテーマが目立つ。実際の声が問題なのではない。文法上、雄弁に語るという形と、弱く語る文体などがあったのである。もうひとつ具体的には分かりにくい言い方がなされていると思うが、それでも、パウロが昂揚して喋りまくるというようなところ、ちょっと意地悪な意図で書いているところなど、聖書の中には、一度そういう分析に携わっておいた方がよさそうな場面が多々ある。
 しかし、その最後の方で、いまの私たちが心して聴かねばならないことが言い渡されている。語る者が、その語った内容のように生きていなければ、意味がない、というのである。口先で幾ら聖書の言葉を高らかに語っても、その人の生き方に聖書が生きていないならば、いわば偽善者になるのである。
 そして、「説教の前に祈ること」が最後の「教え」となる。「神がその口に良いことばを与えて下さるように祈るとよい」と勧め、「ことばと教えによって働く者は、神がふさわしい賜物を下さるように祈るべきではないか」と問いかける。そして、「説教のすばらしい成果を得たならば、うたがいもなくそこからうけとった神に感謝しなさい」と結ぶのである。惚れ惚れするような幕の閉じ方であると言えるだろう。これだけのものが多くの時を超えて、私たちに届けられているということは、なんとうれしいことだろう。なんと奇蹟が重なったことだろう。実にありがたいことである。




Takapan
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