本

『旧約聖書における社会と人間』

ホンとの本

『旧約聖書における社会と人間』
並木浩一
教文館
\2000
1982.12.

 実に硬いタイトルである。おまけに<聖書の研究シリーズ>などと肩書きが付いている。サブタイトルも「古代イスラエルと東地中海世界」と畳みかける。案の定、これは硬派であった。学術論文である。論考には分量が足りず、議論を略しているところもあったが、それぞれが、何のへつらいもない論文である。
 旧約聖書の碩学であり、特にそのヨブ記研究は、右に出る者がいないとされる。一般に向けて書かれた信仰書は非常に分かりやすく、普通私たちが気づかないところを指摘する。その分かりやすい書や講演から親しみを覚えて手を出したものだから、私はこの本格的な姿に圧倒されてしまった。
 著者47歳のときの出版である。初出はこの3年前からであるが、脂ののりきった時期であると言えようか。
 今回は、とくにギリシアなどとの「比較」による叙述となっている旨、冒頭に記されている。それはたいへんありがたい。まずはハンムラビ法との比較により「契約」というものが読者の目の前に突きつけられる。法律的な観点が細かく論じられる。聖書研究のためには、この法的な理解がどうしても必要なはずであるのに、私たちは、否私は、なんとそれに疎いことであろう。反省させられる。ここでは旧約聖書であるが、新約聖書においても、イエスがどうして憎まれたか、イエスの裁判の法的な根拠は何か、そうしたことは、法律の理解や社会制度などを含めて、多様な光を当てなければならないはずである。ただ感情的に、現代的観点から判断したところで、聖書の一つひとつの言葉の真意に触れることは難しいことだろう。
 続いてテーマは「傷」となる。カインとアベルに加えて、イェフタの娘の謎に触れる。その上で、示唆的であるとはいえ、イエスの傷というものに目を向けることの必要を教えてくれる。つまり、「十字架」という結論だけですべてを物語るのは危険だということだ。「十字架」は、そこへ至るまでの「傷」をすべて含むものとして受け止められなければならない。私はこれに大いに目を開かれた思いがした。確かに私自身、そのような信仰をもっていたはずだった。だが、十字架にこだわる神学のようなものが、その救いに疑問をもつような言い方をするときに、それは違うということを、なかなか言えないでいた。しかし本論考は、自分の中にあった信仰の核心に、改めて光を当ててくれたと思っている。
 エジプト文化との対比となると、やはりヨセフが扱われることになる。私は現代のエジプトの人々に、申し訳ないと思う。聖書の記事であるとはいえ、信徒は、エジプトという名を、忌まわしいもの、神に反するものとして口にする。だがエジプトには歴史的にもキリスト教を守る大切な役割を果たしたことを含めると敬服するところもあるし、第一いまもなおエジプトという国がある以上、それを悪者の代名詞のように言われることが、快いはずがないであろう。なんとかならないか、といつも思う。
 ギリシア哲学に顕著であった、ロゴスによる対話の重視、それをここでは「弁論」という名で通しているが、弁論というものがイスラエルではどのように捉えられていたのか、ギリシア文化と対比させて述べる論考があった。哲学の伝統とどう関わるのか、私にとってはこれもまた大いに興味をそそる問題であった。旧約聖書の中にある弁論は、もちろんギリシアのやり方とは異なる。ではどのように異なるのか。それを正面から議論するものに、これまで出会ったことがなかった。聖書の中にある議論とその論理、それを十分楽しませてもらった。
 最後に「視覚表現」が追究される。これはまずギリシアのホメロスとの比較から入る。ギリシアでは、見る働きが強いこと、だから関心が自分の外に向かっていくこと。それに対してイスラエルでは、神の声を外から聴くというところが重視される。もちろん見ることも大切だが、それはむしろ神から見られることに基づいて人間もまた見るのであって、相互性が強く意識されることになる。続いてウガリト文学がかなり詳しく扱われる。ウガリト王国は、旧約聖書の背景にあったカナンの文化をつくり、その神話は旧約聖書の成立を研究する場合に欠かせないものだという。そこにある「見る」意味をもつ語の精細な調査は、私にはもうついていくことができないものだったが、そこから導かれる結果は、よく伝わってきた。見ることだけが独立して意識されにくい情況だったのだ。
 これはイスラエルもそうであるし、私たち近代人が制約されてきた道を振り返るためにも、非常に有用な考え方ではないかと思われる。私たちはあまりに視覚という特定の感覚だけを優位に扱いすぎているのではないか。見ることは見られることでもあるという捉え方を、近代人は忘れてはいないか。自然を見るという方向性で好き勝手に扱っている人間であるが、自然が私たちを見ているという視点を蔑ろにしてきたツケが、いま回ってきていることに、気づかねばならないのだという、慧眼の主が時折指摘することは、本当だったのだ。
 それは精神的にもそうである。最後の論考の最後に、こんなことが書いてある。「ギリシア人は知ることによって知られ、イスラエル人は知られることによって知ったということになる。」(p253-254) これには注がついており、第一コリント13:12が参照されている。「その時にはわたしが完全に知られているように、完全に知るであろう」という順序が重要なのである、と。これは、確かに福音である。福音は、世界を変える力を有していることを、強く感じるのである。




Takapan
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