『旧約聖書の政治史』
古田博司
春秋社
\2700+
2020.5.
社会科学者である。そして、クリスチャンではない。著者のこのスタンスからして、実は大いに期待するものがあった。旧約聖書の社会について説明する本は多数ある。だが、キリスト教を信ずる著者が説明すると、どうしても信仰の立場から、歴史自体よりも聖書の記述を軸に語りたくなるものであって、聖書そのもの説明になりがちである。また、たとえ聖書を自由に解釈する主義の著者であっても、政治社会はやはり二の次であって、まずは聖書テクストが先にあって、それは史実だとか史実でないとかいう議論に走ってしまうものである。
ところが本書は違う。聖書の記述を、社会科学的に批判するのである。この「批判」というのは、非難することではなくて、正当に取り扱い、吟味する、という意味である。だが、いくら公平無私の姿勢を意識しても、キリスト教の信徒が聖書を論ずるにあたっては、どうしてもフィルターがかかってしまう。
その点、本書は非常に冷静に聖書を観察する。しかも、だからといって傍から見ているだけで上滑りしているようには思えない。その探究は半端なものではない。「おわりに」あるいは「はじめに」で、著者は自分のことを「独学魔」であり「原典フリーク」であることを告白している。自身の学校時代のエピソードも語るに憚らない。細かなことをここでは挙げないが、相当に「変な」人である。並の人物ではない。それは、いろいろ掘り出せば話題に尽きないが、ここでは著者その人について掘り下げることは、これ以上は遠慮しておくことにしよう。
本書の特徴について、著者は「社会科学の実験を「聖書」の記録でしてみる」ということだと明言している。社会科学というものは、人文科学とは異なり、拠って立つ伝統というものを踏まえて先人の機嫌を伺いながら語るという必要がなく、新参者として、いわば何でも言えるということで、ウェーバーをひとつのヒントにしながらも、さらに「直観と超越」をさらに進めてゆこうとするのである。
最初に挙げているが、ユダヤ教の中核に、「人は神の奴隷であり、人の奴隷ではない」というテーゼがあることは、本書の至る所で見出される押さえどころであるから、読者はこれを踏まえて読み進むとよいと思う。
本書の目的は、「聖書を一部の人々の偏見から解放し、大衆に役立つものにすること、聖書は無知や無明から抜け出し、「大いなるもの」に近づく実用の書であること、これを示す」ことにある、とはっきり告げている。社会科学の方法をとっているとはいえ、この目的については、私は大いに賛同したい。信仰から始まる叙述ではないから、聖書を軽んじているということはない。
そして、先に言うべきであったが、本書はズバリ「面白い」。類書にないものがここにある。淡々と聖書に従って述べるところも多い。特に、終盤は、北イスラエル王国と南ユダ王国の歴史を、列王記と歴代誌に沿って、ひたすら述べてゆくだけのもののように見える。旧約聖書を知る者にとっては、ふむふむと軽く頁をめくるばかりのような時間が続くようにも思える。だが、歴史を語るその合間に、ひょこっと、痛烈な批判が現れ、あるいは鋭い指摘が光ることがある。これを見逃すのはもったいない。
面白いと言うばかりではない。聖書の記述の背景にあるものが、よく見通されている。社会とはこういうもの、人間とはこういうもの、という広い見識と深く掘り下げる眼差しが、世の中がこうであるからこそこのように記述された、という推測をも真実味あるものとしている。
奴隷に対しても、神学者が軽々しく「奴隷」と口にするのとは訳が違う。当時の社会に於ける奴隷とは何であったのか、よく分からないままに述べるのとは違うのだ。国家というものの成立について、レビ人の起こり、そうしたものを聖書の記述を私たちがいま解釈する思い込みから解放してくれる。旧約聖書の一つひとつの事件について、恰も当時その現場に居合わせたかのように、リアルに再現させることは、究極的には不可能であるにしても、本書は、神学者の書いたものとは比較にならないほど、読者にその現場を味わわせてくれると私は感じた。
その意味で、モーセについての叙述は多くはない。伝説的な記録であることに加え、荒野での生活が、社会を扱うにはそのままには信用できない点が多すぎるのだ。律法の規定は、定住生活を基にしているとしか思えないならば、荒野での生活がどうのこうの、と述べるのは適切だとは言えないのだ。
しかし、カナンの地に入ってからの預言者のあり方には、当時の生活の何かが反映されているに違いない。それは偶像テラピムやダン族についての叙述にもヒントが隠れている。エフライムとは何だったのか、それもかなり信憑性を持って推測できる。
その後、サムソンやソムエル、そしてサウル王国辺りから、俄然歴史物語としての意味をもってくる。ダビデからソロモン、そしてその後の王国分裂と預言者の出現など、聖書を辿る形で語ることが多く成るが、示唆するところは様々である。とくに、預言者が多々現れる時代や、現れなくなる時代などについての説明は、とても参考になった。預言者集団も、ひとつの職業であり得た時代があるし、その預言者の立場や職業次第で、言い放つことに理由が見られるのである。イザヤからエルサレムの滅亡に至るところは、旧約聖書のクライマックスのひとつであるが、内部戦争やアッシリア軍とのやりとりなど、たいへんリアルに説明される。そして、私の好きなエレミヤが、如何に破天荒であったのか、が証拠立てられるのを見ると、実にスッキリした思いが与えられたものである。
また、イスラエルは幾度も、エジプトとアッシリアあるいはバビロニアとの、どちらにつくか、選択を迫られる場面がある。このとき、王が決めたり、預言者が意見を言ったりしているが、その背景には、言語的な側面もある、という当たり前のことを本書は教えてくれた。イスラエルの言語は、アッシリアとは通じ合うところがあるが、エジプトは別である、というのである。その点を頭に置くだけでも、聖書に記述される場面の理解に納得がいくこがある。言語や地理の条件は、地味だが、考慮すべきであることを学ぶことができる。
なお本書では、歴史の真実を説得力を以て説明するために、幾度か東洋の歴史について言及することがある。王国とはこういうものだ、国家はこういう姿勢をとる、などであるが、「凡例」で断っているように、その歴史上の叙述については、「チャイナ」「コリア」や「シナ」などの表記をとって、その「地域」での出来事を示すというのは、筋の通ったことなのだろうが、私にはかなり特異に見えた。それが社会科学での常識なのだろうか。
これは社会科学の実験である。聖書はこうだ、と決めているわけではない。だが、聖書を読み解くのに、そういうことをしてはならない、という決まりはない。そういうことか、と目を開かれることもしばしばである。とくに「預言者たちの過酷なサバイバル」と副題にあるのを見ると、これは預言者ファンとしては見逃せない。何よりも、面白い。本書の存在をどうやって知ったか覚えていないが、これは読むに値する、と感じた直感は、間違っていなかった。

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